鯨と短冊

「笈木さん、笈木さん、今日は7月7日じゃないか」
「あー七夕か」
 数学のテストが終わって今日のテストが終了した。残り1日。帰らずにそのまま勉強をする私にむかって前の席に座った遠藤くんはそんなことを言い出す。私の知る限りでは、彼は七夕を祝うほどロマンチストでもないし、私たちは七夕を祝えるほど余裕のある状況でもない。外に植えられた木の隙間から強すぎる日差しが差し込んでいて、窓から吹き込む風は生暖かい。じっとしていても汗がでてくる、そんな温度だ。タオルで額の汗をぬぐって、私は机の横に引っ掛かっている鞄のポケットから暗記カードを取り出す。自分で作った暗記カードは既にぼろぼろで何枚かはリングから外れてしまっていた。
「何で七夕にまでテストするんだと思う?七夕にテストしたとしてもあと1日日程が早かったら僕たちは今から七夕を祝えたって言うのに。先生たちは風情を知らないんだよ」
 椅子に後ろ向きに座って遠藤くんは演説を始めるが、私には七夕を祝う余裕もそんなくだらない演説を聞く余裕もない。暗記カードを1枚めくる。「誰もその真相は知らなかったらしい」
「It seems that no one knew the truth.」
 口の中で呟いて裏の答えを確認する。アタリ。次。「鯨は魚ではなく哺乳類だ」
「The whale is not a fish but a mammal.」
 哺乳類、という単語を私が思いつくより先に遠藤君が答えた。
「どう?当たってる?」
 遠藤くんは七夕理論を放棄したらしい。真剣に私の手元のカードを見ていた。カードをめくると裏面にはさっき遠藤君が言ったばかりの文章が書いてある。
「やったー!アタリ。じゃあ笈木さん、そのカード俺にちょうだい」
「駄目、私まだこれ覚えてないもん」
 そういってみても遠藤くんはまったく聞かない。しつこいぐらいに鯨のカードをねだる。所詮紙一枚、テキストにも載っていることだしそれで覚えれば問題ないだろう、と最終的に私が折れた。リングを開いてそのカードを遠藤くんに渡す。遠藤くんは嬉しそうにそのカードを裏返したり逆さにしたりしながら眺めている。そして大きな音を立てて指でピン、と弾くと言った。
「ちょうどいい感じだと思いませんか?笈木さん」
「何に?」
「短冊」
 何を言っているのかわけがわからなかった。答える言葉を捜している私を面白そうに見ながら遠藤くんは私の前にカードをかざし、穴のところを指で持って90度回転させる。暗記カードが短冊に変わった。
「でも地味じゃない?短冊ってもっとカラフルでしょ」
 私が言うと遠藤くんはあぁ、そうかと呟いて自分の筆箱からピンクの蛍光ペンと定規を取り出す。そして定規をカードに当てて綺麗にカードをピンク色に塗っていく。教科書にひかれているような見慣れたピンクのラインが1本、また1本と増えていくのを私はぼんやり眺めていた。鯨のところに差し掛かると、もともとペンで書かれていた鯨の文章が滲む。それでも遠藤くんは手を止めない。黒の混ざった汚いピンクのラインがグラデーションを作りながら伸びていく。そして最後までピンクに塗り終わると遠藤くんは満足げにそれを眺めた。鯨の文章を線で消して子供のような顔で短冊を見つめる。
「さて、笈木さん、何を祈ろうか」
 にっこりと微笑んで遠藤くんは言う。
「英語のテストしか思いつかない」
 私は答える。オッケー、と遠藤くんは答えて短冊に願い事を書き始める。鯨の文章の横に、縦書きで。
 ――英語のテストができますように!
 出来上がった短冊は酷く滑稽で私たちは顔を見合わせてくすりと笑う。
「さーて吊るさなくちゃね。笈木さん、笹持ってない?」
「持ってない」
 即答。持っているわけがない。
「だよねー。あ、これでいいや、仕方ない」
 遠藤くんはそう呟いて椅子から立ち上がる。筆箱の中からホチキスを取り出すと窓の外の木に手を伸ばしてその葉っぱにばちんと短冊をとめた。
「痛そー」
 風情がどうのといっていた人間のやるようなこととは思えなくてそう言ってやると遠藤くんはさらりと答える。
「大丈夫、だってお揃いだもの」
 そういった遠藤くんの耳には銀色のピアス。
「なるほど、お揃いだ」
 私は遠藤くんと木と短冊とを眺めながら言った。遠藤くんは誇らしげに笑いながらホチキスとペンを筆箱に戻して、筆箱を鞄に放り込む。
「それじゃー、邪魔者は帰るとするよ」
 筆箱以外何もはいっていなさそうな鞄を肩からかけて遠藤くんは教室の出口に向かう。
「叶うかな?」
 後姿にたずねると、自信満々の笑顔で遠藤くんは答えた。
「叶うでしょ。2人分の願い事だもん」
 なるほど、と一人呟いて私はまた暗記カードに向き合う。遠藤くんの足音が遠ざかる。

 7月8日。期末テスト最終科目、英語。文法は割とできた。残すは構文。今回はどうやらテキストの例文がそのまま出題されたらしい。1問目「ジムがその日外出しなかったことは確かである」→「It is certain that jim didn't go out that day.」。オッケー、覚えてる。2問目「鯨は魚ではなく哺乳類だ」→「The whale is not a fish but a ・・・」そこまで書いてそれ以上ペンが進まなかった。哺乳類なんて単語はどうやら私にとって重要性という魅力を見出せない単語らしい。何度覚えても覚えられないでいる。前の席では遠藤くんがさらさらと答案を埋めている。にらむようにその背中を眺めたところで単語は浮かばない。窓の外では昨日吊るしたピンクの短冊が葉っぱにしがみついている。
 そのとき強い風が吹いた。ピンクの短冊が白に変わる。
 ――The whale is not a fish but a mammal.
 ああ、そうだ。哺乳類はmammalだった。罪悪感はあったがそんなところで正義感を見せられるほど私には余裕がない。再びペンを紙の上に滑らせて私は英文の残りを書いた。
「本当に叶っちゃうわけだ」
 諦めたのか解ききったのかは定かではないが、回答をやめて机に突っ伏して寝はじめた遠藤くんの背中に向かって私は小さく呟いた。