スーベニア

 甘い花の香りは扉を開ける前から廊下に漏れ出していた。この部屋の持ち主は時間と自分とを結ぶ媒体に煙草を使う。そのうえ魔法を使わない時であっても煙草を手放さないヘビースモーカーなのだから、廊下の空気にまで影響がでてしまうのは当然の結果であった。また増えたんじゃないかしらん。隣近所のことなど何も気にしない、懐かしい香りに苦笑しながらアリーは扉をノックする。
「師匠、アリーです。入るわよ」
 今さら遠慮することなど何もない。かつては毎日この部屋に出入りしていたのだ。ポケットから古い真鍮の鍵を取り出して、鍵穴に差す。もともと重たくはあったが鍵はさらに重たくなったように感じた。思えば随分久しぶりだものね、と、そんなことを考えながらアリーは扉を開く。
 扉を開けると部屋の中は白い煙が立ちこめている。廊下では気付かないが香りは甘いだけではなく、刺激的なスパイスの香りや木の実を炒ったような香ばしい香りが紛れている。その中心で煙草を吹かしている老人、イセクラがアリーの師匠だ。扉の外まで香りが漏れ出してしまうのと同じ理由で、白かった部屋の壁紙はすっかり飴色に染まってしまった。
「遠いところ、悪かったね」
 灰皿に煙草を押しつけながらイセクラが言う。左手では火を消しているが、同時に右手では次の煙草の巻紙を広げている。彼を見るたびに、煙草が身体に悪いというのはもう一度研究し直した方がいいかもしれないと、アリーは思う。彼女の師匠は今や長老とも呼ばれている。
「話は手紙に書いた通りなんだが、」
「ええ、お断りよ」
 質問を待たずにアリーは答える。
「私、向かないと思うし、あまり興味もないし、」
 面倒くさそうだから厭よ。長くいれば最後まで言い切らずに飲み込んだ本音が聞こえてくる。久しぶりに弟子を呼びつけたのは時計塔の守り人をしてほしかったからだ。海辺の街に立つその時計塔は、姿は美しいものの最近は自殺の名所として有名になりつつある。それを見かねた旧友は自殺を止めてほしいと彼に依頼したのだ。
「君も魔女なら解るだろう?時計塔は時間の精霊にとって神聖な場所なんだ。もちろん、僕たちにとっても」
「だって師匠のご友人は私にとって他人だし、それに私、精霊の類は見えないのよ」
「どうしてそれだけの魔力を持ってて見えないんだろうねぇ」
 吹き出した煙の行き先を眺めながら、イセクラは目を細める。精霊が見えないとアリーは言うが、実のところは少し違う。アリーの見る力に問題はなく、精霊たちの方が姿を隠しているだけなのだ。イセクラは可愛い弟子と思うのだけど、彼女は精霊たちだけではなく人をも近づけない。よく言えばクール、悪く言うなら冷血。ずば抜けた魔力を見て魔女にしたが、鬼の女社長とかの方が似合っていたんじゃなかろうか。血も涙もなく淡々と仕事をこなさせたらさぞ上手くやったことだろう。スーツとパンプスで武装したアリーの姿を思い描きながら彼はため息を吐く。
「意外といいかなと思ったんだけどね」
 彼女の得意とする人の過去を見る魔法でたくさんの人の人生を見るのはきっと大きな経験になるだろう。少し丸くなれば精霊たちも姿を見せるかもしれないのに。そんなイセクラの気も知らず、アリーは笑う。
「全然向かないわよ?師匠、適材を選ぶセンスがなさすぎるわ」
「かもしれんね。有能な女社長が経営する大企業を一つ潰したかもしれないし」
「何の話よ?」
「あぁ、こっちの話」
 いつの間にか短くなっていた煙草の火を消してイセクラは立ち上がる。
「そんなことよりお茶にしよう。君の好きだったクッキーを焼いておいたんだ」
「あら、素敵。あれ、その辺の売り物より全然美味しいんだもの」
 嬉しそうに戸棚からティーセットを取り出す姿は幼く魔力を持て余していたころと何も変わらない。根はいい子なのだ。少し不器用というだけで。
 午前中に焼いた猫型のクッキーはアリーの大好物だった。大人になっても未だにそれはかわらず、今日も砂時計の砂が落ちるのを待てずに口へ運んでいる。
「相変わらず好きだね」
「ええ、レシピ通り作っても私じゃこの味にならないのよ」
 愛おしそうにクッキーを眺めながらアリーは言う。たくさん作ったけれど、こうも次々と口に放り込まれては紅茶を淹れる前になくなってしまうのではないかと不安になってくる。はらはらとアリーを見ながら、イセクラは砂が落ち終わる瞬間と同時にポットを傾けた。
「ほう」
 カップからのぼる蒸気を見ながらイセクラは一人感心する。ふわりと部屋に立ちこめるすっきりした爽やかな茶の香りは長年染み付いた煙草の匂いにも負けなかった。さすがは王族から庶民まで茶を愛してきたというあの街の土産である。
「師匠、これ、なんてお茶?」
 呼ばれてイセクラが顔を上げればアリーは真剣な表情でティーカップをのぞき込んでいた。
「ああ、そう言えばそうだった」
「え?」
「いや、こっちの話。これはお土産でもらったものだよ。飲んでごらん」
 そう言われたアリーは本当に嬉しそうな表情だった。くんくんと小さく鼻を鳴らして香りを吸い込むと、大切そうにカップに口を付ける。頭のない猫がひとつ、小皿の上で寂しそうにしている。
「美味しい!すごく、すごく美味しいわ」
 一口で魅了されたアリーは子供のように目を輝かせている。彼女は時間と自分との媒体に茶を使う。イセクラがそうであるように、アリーもまた彼女の使う媒体、即ち茶を中毒的に嗜む。
「そうか、すごく美味しいか」
 笑いそうになるのを堪えながらイセクラは言う。
「アリー、やっぱり、僕はあると思うよ」
「今さら何?」
「適材を選ぶセンス」
 紅茶の詳細を聞きたいのだろう、いらいらしだした弟子を眺めながら、イセクラは忘れ去られ続けている首のない猫を口に放り込む。紅茶には完敗してしまったが、我ながら美味い。
「まぁ、話の前にもう一杯茶を淹れよう。土産でたくさんもらったからね」
「ねぇ、次は私が淹れてもいいかしら?」
 旧友が持ってきた色とりどりの缶を眺めてアリーは湯を沸かしている。
 一度だけ行ったあの街は、茶の香りを害する煙草が極端に嫌われる点を除けば、素晴らしい街だった。滞在したのがたった2週間程度だったのが信じられないほどたくさんの思い出がある。少し不器用な弟子が返事をひっくり返すに相応しいエピソードはどれだろうか。猫型のクッキーが残した甘い砂糖の名残を紅茶で流し込みながらイセクラは記憶の中の遠い街へと旅をする。