二人の酒宴

*串の所有権
「先輩は、とても不幸な方なのです」
 正直言って最初は驚いた。彼女はとてもゆったりとした話し方をする。それは、その辺にいる男の子より短く切られた髪や目のやり場に困るようなショートパンツとはあまりに不釣り合いに思えた。しかし彼女と向かい合ってこうして話してみると、すっきりとした一重瞼の奥の大きくて真っ黒な瞳にはその声も口調もぴったりとマッチしている。とても感じのいい子だ。俺の分のハツを食ってしまったことだって許してしまえるくらいには。串を綺麗に片付けて、モスコミュールをグビリと飲むと彼女は続ける。相変わらずのゆったりした口調で。
「初めて先輩を見たのは雨上がりの朝、入学したばかりの大学の部活勧誘会でのことでした。長い雨が桜の花びらを全部散らしてしまって、水たまりだらけのグラウンドは積もった花びらで一面桜色をしていました。午後になると人に踏まれて泥だらけになってしまったのですが、私はあまり人混みが得意ではないので朝、まだ人が疎らな時間を選んだのです」
 彼女の口調で語られる思い出はまるで物語のようだった。
「私は桜色の地面を見ながらそっと歩いていました。すると、視界に目の覚めるような青が入り込んできたのです。それは水たまりに青空がうつりこんだなんていう生易しい物ではなく、心臓が止まるのではないかというくらい鮮やかな青でした。顔をあげると、青の真ん中に人が立っていました」
 そこで彼女はうっとりとした表情で宙を見る。
「それが先輩との出会いでした」
 彼女は一つ息を吸い込んで、それから皿の上の梅しそささみを美味そうに食べた。その串もまた俺のだ。いや、俺のだと俺は思っていた、と言うのが正確な表現か。2本ずつ頼んだ串は1本ずつ分配するという俺の中の常識など彼女には通用しないのかもしれない。何しろ、出会いのインパクトがでかすぎる。空から彼女が降ってきた。それが俺と彼女の出会いだ。

*直帰なう
 そのとき俺は公園のベンチに座って飛行機を眺めていた。金曜、午後4時半。スーツ姿で呆けている俺は知らない人が見たらリストラされたことを家族に言えないでいる父に見えるのかもしれない。あいにく未婚だ。心の中で誰かに言い訳をすると、いかにも南の島へ向かっていくって感じの鮮やかな色をした飛行機が飛び立っていった。
 終業時刻より少し早い夕暮れどき。サボりかサボりじゃないかで言うと明らかにサボりだ。しかし考えてもみて欲しい。打ち合わせが長引いて終わったのが終業時刻の30分前、そして取引先から会社までは40分もかかるのだ。事務所のデスクにはやりかけの仕事を残してきてしまっているけれど幸いなことに急ぎではなかった。さらに言うなら今日は金曜だ。適当に時間をつぶしてから直帰の連絡を入れるという結論にたどり着くのは当然の結果であろう。わずかに胸の奥で頭をもたげる罪悪感を期間限定の缶ジュースで飲み込んだ。缶の色が綺麗だったのでよく見もせずに買ったそのジュースはほとんど砂糖の味しかしない。缶を裏返して原材料を見たらアップルミントという名のその飲み物にはりんごもミントも入っていなかった。この感じだと、意識しなくても飲み干すまでに30分ぐらいはかかってしまいそうだ。ため息をつきながら俺はそんなことを考えた。しかし俺がもう一度アップルミントなる飲み物を飲むことはなかった。なぜなら、一口しか飲んでいない缶を落としてしまったのである。この飲み物の味を知る人には信じてもらえないかもしれないが、故意ではない。キャパシティを越える驚きが原因であり、それは不可抗力だった。もちろん、驚いたのは中身の組成が原因ではない。
「先輩!!」
 叫びながら公園に駆け込んできたのは小柄な20歳くらいの女子だった。彼女は飛び立ったばかりの飛行機に手を伸ばす。
「先輩、厭だ、死なないで!!」
 死なないで。行かないでと叫ぶならわからなくもないが、彼女は死なないでと言った。それが気になった。先輩とやらは危険な地に赴くのかもしれないとも考えたが、旅の無事を祈るには必死すぎる。喉をつぶしかねないほどに叫びながら届きもしない飛行機に手を伸ばす姿は、死ぬことが確定事項であることを知っているかのように見えた。
「先輩、死なないで!」
 彼女はもう一度叫ぶとジャングルジムを登りはじめた。そして天辺まで登ると立ち上がる。当然だが、それでも飛行機には届かない。それでも彼女は諦めない。懸命に手を伸ばしながら、信じられないことに彼女は細い鉄のパイプの上で背伸びした。
「危な」
 思わず声が出ていた。持っていた缶が地面に落ちてアップルミントが革靴にかかったが気にする余裕はない。ぐらりとバランスを失った小さな体は既に宙へと投げ出されている。運動不足の足がもつれてバランスを崩し地面に転がる。それでも必死に伸ばした右手の先を短い髪が掠めていった。
「君、大丈夫?」
 地面に落ちたままの姿勢でうずくまっている小さな体に声をかけてみる。反応は無かった。
「先輩・・・先輩」
 小学生のころに鉄棒から落ちたときのことを思い出していた。体が痛くて息が出来ない感覚。きっと今、彼女はその状態にあるのだろう。それでも彼女は空を見上げて立ち上がる。視界に入った細い足、血が幾筋も流れていった。
「足、大丈夫?」
 聞いても返事はない。
「もう、その、先輩については一旦置いておこうよ。飛行機いっちゃったし」
 彼女がこくんと一つ頷くと、涙が一つ地面に落ちた。女子の涙ほど怖いものはないと思っていたが、それよりずっと右手右足から流れ続けている血のほうが恐ろしかった。傷は浅そうだけれど、右足にいたっては太ももから足首までと随分酷い範囲から血が出ている。
「とりあえず、病院行こう」
 アップルミントに騙されたのが遠い昔のようだった。携帯電話を取り出した俺に迷いは無かった。何時か知らんが直帰しよう。
「もしもし?高津。お疲れ様」
 電話に出たのは幸運なことに仲の良い同期だった。
「今、打ち合わせ終わってちょっと早いけど、女の子が落ちてきたから病院連れてってそのまま直帰するわ」
「お前、どこのラピュタにいるんだよ!」
 笑いながらまるで信じてない馬鹿に説明するのも面倒で何も言わずに電話を切った。

 そこからタクシーで病院に行って検査をしたが、幸いなことに擦り傷だけで他に異常はないとのことだった。随分短い診察だったが、ジャングルジムから落ちましたと正直に言った彼女に対してそれ以上のことを何も聞かなかった医者には好感が持てたので、その診断結果を疑うことは無かった。実際に彼女は包帯だらけの足でしっかり歩いている。
 まだ空が明るい。時間を見たら5時半だった。いつもより随分早い帰宅だ。
「時間あるなら軽く飯でも食べてかない?」
 先輩との関係が気になったから、彼女がなかなか可愛かったから、等等。彼女を食事に誘った理由は色々あるが、一つだけ選ぶなら金曜の5時半だったからだろう。
「良いですよ、行きましょう」
 即答した彼女は笑顔だった。細められた一重瞼の目は涙の名残で少しだけ赤かった。

 そんなわけで俺たちは、生ビールとモスコミュールで乾杯することとなったのだ。可愛い彼女を口説いてみるのも悪くはないが、しかし気になるのはやはり先輩だ。
「公園で、何やってたの?」
「やっぱり気になりますよねぇ」
 ゆったりした口調で彼女は言った。
「あの飛行機に、たぶん先輩が乗っていたのです」
「先輩?」
 彼女の表情が輝く。
「はい、部活の先輩なのです。そして、」
 彼女はうっとりとした表情で続ける。
「先輩は、とても不幸な方なのです」
 そうして彼女の先輩の話が始まった。

*彼女の先輩の話
 先輩は、とても不幸な方なのです。
 初めて先輩を見たのは雨上がりの朝、入学したばかりの大学の部活勧誘会でのことでした。長い雨が桜の花びらを全部散らしてしまって、水たまりだらけのグラウンドは積もった花びらで一面桜色をしていました。午後になると人に踏まれて泥だらけになってしまったのですが、私はあまり人混みが得意ではないので朝、まだ人が疎らな時間を選んだのです。
 私は桜色の地面を見ながらそっと歩いていました。すると、視界に目の覚めるような青が入り込んできたのです。それは水たまりに青空がうつりこんだなんていう生易しい物ではなく、心臓が止まるのではないかというくらい鮮やかな青でした。顔をあげると、青の真ん中に人が立っていました。
 それが先輩との出会いでした。
 青の正体は新入生を部活動に誘うためのチラシでした。ああ、チラシが風で飛んでしまったのか。そう解っても私は先輩から目を離すことが出来ません。その理由はすぐにわかりました。先輩が諦めた目をしていたからです。普通、チラシをばら撒いてしまったら拾い集めます。その日は地面が濡れていましたが、それでもすぐに拾えば表面に落ちているチラシぐらいは無事拾い集められるかもしれません。それなのに先輩は何もせず、ぼんやりと水を吸っていくチラシを眺めるだけでそこにいました。やる気がないのかなとも思いましたが、目を見た瞬間、この人は諦めているのだと気づきました。先輩は使い物にならなくなった大量のチラシのことを嘆いたりどうにかしようとしたりしようとなんてしていませんでした。ああ、またか。先輩の目はそうおっしゃっていました。この人はどうしてこんな風に諦められるんだろう。そのころ第一志望が不合格で滑り止めの大学に進学することになって、それでも浪人してもう一回挑戦しようかなんて諦め悪いことを考えていた私は先輩のことが気になりました。そこで、チラシを一枚拾って先輩に話しかけたのです。
「古武道研究会って何をなさっているのですか?」
 私がそう声をかけると、先輩は少し驚いた様子でした。
「興味ある?」
 初めて聞いた先輩の声は少し気だるくて、思っていたより低かったのを覚えています。あまりないです、と私が正直に答えると、俺もだ、と先輩は笑いました。
「興味がないのにどうして所属していらっしゃるんですか?」
「ちょっとした不幸で」
 笑いながら、それなのに諦めた目をして先輩はそうおっしゃいました。その言い方がなんだかとても素敵だったので、私は興味なんかない古武道研究会に入ることになったのです。どうして入ったのかを聞かれたときは「ちょっとした幸運で」と答えることにしています。
 先輩の不幸は、もちろん、興味のない古武道研究会に入ってしまったことだけではありません。先輩は数々の不幸を諦めることでやり過ごしていました。部活に関係することでひとつ。私たちの古武道研究会は武道と付いております通りで怪我が多いのですよ。キックなんかをこう、腕で受け止めたりすると結構簡単にぽっきり行くんですよ。そんな感じで私も一回折っちゃいましたし他の部員の方だってそこそこ怪我をしていたんですけど、やっぱりダントツ怪我が多いのは先輩でした。先輩は4年の大学生活のなかで6回も骨折されたんですよ。死ぬわけじゃないからよかったよ、なんて先輩はおっしゃっていましたが1年に1回以上だなんてやっぱり不幸としか言いようがないです。
 先輩の不幸はまだまだあるのです。中学のころは虐められていて、あだ名が雑草だったそうです。クラスメートを雑草呼ばわりするなんて、一体何があったのかは存じませんが、随分酷いことでしょう?大学受験はセンター試験の日に結核で入院していたそうです。インフルエンザとかじゃなくて結核。なんとも不幸な感じがしますよね。まぁ、そのおかげで私は先輩と出会うことが出来たんですけれど。
 この前だって付き合ってた彼女さんに50万円だまし取られてしまったんですよ。ネイルアートの資格を取るのにお金が必要なんだって言っておいて、お金を渡した瞬間に連絡が取れなくなってしまったんです。私は怒って警察に行こうと言いました。それなのに先輩はいいんだって言うんです。5000万とかじゃないからいいんだって。だからそのことはもう終わった話となりました。もちろん私は納得できないでいます。でも、私は先輩のそんなところを素敵だなって思っているのでそれ以上は何も言わないことにしたのです。先輩の強さは諦めることなのです。私みたいに起こり来る理不尽な不幸のすべてに腹を立てていたのでは神経が持ちません。普通の方ならばともかく、先輩は、とても不幸な方なのです。

 先輩が死にたいとつぶやいたのは、50万円を騙し取られた日から3週間ぐらいたったときのことです。死にたい、とつぶやいて、先輩自身も驚いているようでした。自覚していなかった思いが口から零れ落ちてしまったという風で、戸惑っているのが手に取るように解りました。
 私はショックで倒れそうになりました。私の知っている先輩は、どんな不幸なことがあったとしても受け流す、柳のような強さを持った人でした。その先輩が今、死にたい、と言っている。私たちが口癖のように使う、“もう厭だ”の同意語としての“死にたい”ではなく、本人さえ気づいていなかった心からの叫びで死にたいと口にしてしまった。
 私は急いで先輩の不幸を思い出してみました。その日の不幸と言えば、自転車が盗まれたことぐらいです。歩道とか駅の駐輪場とかじゃないですよ、自宅に止めていた自転車が盗まれたんです。酷いことではありますが、死ぬほどではないです。そこから遡っていきましたが、大きなものは恋人に50万円を騙し取られたことしかありませんでした。けれど、それは先輩自身がいいんだっておっしゃっていましたし、直接の原因とは思えません。そうなってくるといよいよ先輩から生きる気力を奪い去った原因が見つかりませんでした。
 しばらく考えて、私は先輩が死にたくなった原因はこれまでの不幸すべてなのではないかと思いました。先輩の不幸は一つで死にたくなるほど悲惨なものはありませんでした。いつも諦めて流せる程度のものでした。しかしそんな不幸も重なれば、少しずつ精神が磨耗していくのでしょう。そして疲れきった結果、死にたいとつぶやくにいたったんだと思いました。そうなってくると話は厄介です。たとえば、恋人に50万円騙し取られたことが原因ならそれを取り戻す方法を見つければそれが解決の糸口となるでしょう。しかし、先輩の不幸すべてが原因となってくると問題は複雑です。先ほどから話しておりますとおり、先輩の不幸は生まれたときからずっと続くもので、いまさら何をやったところでどうにもならないでしょう。
 どうしたら先輩の自殺を阻止できるだろうかと考えていたとき、電話がなりました。先輩からです。先輩は、相談がある、と私に言いました。その口調はこの世の終わりみたいな悲壮感にあふれていましたので、相談内容は死にたいと口にしたことについてなのだと解りました。そして私と先輩は次の日の夜に食事をすることとなったのです。時計を見るとちょうど夜の7時でした。時間は24時間しかありません。そして私は24時間かけて必死に、先輩を自殺させないための方法を考え続けたのです。

「死にたいと思ったこと、ある?」
 乾杯の次の言葉としてはあまりに酷いものでした。先輩は真剣な顔で私に尋ねます。私は正直に、ない、と答えました。
「先輩は死にたいと思ったことあるんですか?」
 私は同じ内容を問い返しました。同じ質問に対しての先輩の答えは私のものとは違いました。
「わからない」
 先輩は言いました。
「死にたい、と口に出してしまったんだけど、本当に死にたいのかどうかわからなくて困ってるんだ」
 きっとそれは本当に思ってることだと思います、とは言いませんでした。先輩がそれに気づいてしまったら本当に死んでしまうかもしれません。だから私は一晩中考えた先輩を自殺させないための方法を実行に移すことを決めました。先輩に自殺を諦めさせるのです。
「それならここで死んでみるのはどうでしょう?自殺の名所らしいですよ」
 私は前日に調べ上げたある時計塔の写真を先輩に見せました。写真を見た先輩は驚いた様子でした。
「ここ、海外かどっか?」
「はい、海外です」
「わざわざ死にに行くわけ?」
「はい」
 お金がかかるだとかパスポート持ってないとか先輩は色々おっしゃいました。そのぐらい出来ないならば本気で死にたいなんて思ってるわけないって私は言いました。死のうと思えばいつだってどこだって死ねると言うことを先輩に気づかせてはいけません。私は必死になって、死ぬ方法は時計塔から飛び降りるしかないと先輩に思い込ませました。
 最後に先輩は私にその時計塔の名前を聞きました。勝った、と私は思いました。だって死ぬためにパスポート作ってお金作って飛行機乗り継いで有名でもない時計塔へ行くなんて現実味ないじゃないですか。だからきっと先輩は自殺を諦めてくれるって思ってたんです。

 けれど、先輩は今日、あの飛行機に乗って行ってしまったのですよ。

*不幸は続く
「どうして、死なないで欲しいと直接いわなかったんだろう?」
 彼女が息をつくのを待って俺は尋ねてみた。天高くの飛行機に向かって死なないでと叫んでいた、あの迫力で言われたら、もっと深刻な理由で死を考えていたとしてもやめてしまいそうなものだと思う。
「だって」
 彼女は目を伏せる。長い睫毛の先が細かく震えていた。
「私に先輩をとめることが出来たとして、また先輩に不幸が訪れてしまったら私はどうして良いかわかりません」
「いや、そこまで考えなくても」
「だって先輩は不幸なんですよ?」
 彼女の言葉が、飛行機に叫んでいたときのように激しさを増していく。
「生きることがそんなに幸せなのかって考え続けたら、私、解らなくなってきて」
 言葉を詰まらせた彼女は真剣そのものだ。
「でも、やっぱ考えすぎだって」
 彼女が反論したそうに口を開きかけたが、気づかない振りをして俺は言葉を続ける。
「これからの不幸なんてどうでも良いじゃないか」
「そんなこと」
 “先輩”がどれほどいい男なのかは知らないし、これまでにどれほどの不幸に見舞われてきたかだって彼女の話から推測することしか出来ないけれど、それでもなんと羨ましいことだろうと思う。
「だって、君はその先輩が好きなんだろう?」
 冗談みたいに見事に彼女の頬が染まる。
「先輩がどんな人か知らないけど、君みたいな子に好かれてたら、普通死にたいなんて気持ち忘れちゃうと思うよ」
 嘘は一つもない。そのぐらいに彼女は可愛いと思う。けれど彼女は首を横に振りながら否定する。
「でも、私、全然先輩のタイプじゃないですし、私なんかに好かれても迷惑だと思いますし」
 そこからはなぜか、先輩の話などそっちのけで俺が彼女を口説くと言う不思議な光景となった。
 可愛い、可愛くない、十分可愛い、全然可愛くない。そうやって何度も同じことを繰り返した結果、ついに彼女が落ちる。
「私、本当に可愛いですか?」
「ホントに可愛いと思うよ」
 怖がりながら、うつむいたまま視線を上げて上目遣いになった彼女は本当に可愛かった。
「その先輩が羨ましいよ。顔が見てみたいぐらいだ」
「あ、写真ありますよ。見ます?」
 彼女はそう言って鞄をとりだす。てっきり携帯電話かデジカメが出てくると思っていたが、彼女が取り出したのはアルバムだった。しかもA4くらいの結構大きなサイズだ。
「写真持ち歩いてんの?」
「はい。みんな、スマホに入れとけばいいって言うんですけど、やっぱお気に入りは現像してるんです」
 そう言いながら彼女は冷めた焼き鳥ののる皿を横にどけ、嬉しそうにテーブルの上でアルバムを開く。
 正直に言って、そこに写っていた男はどこにでも居るような地味な男だった。どっちかといえば冴えない方で、俺のほうがまだマシに思える。
「この写真がオススメなんです。素敵な表情してると思いませんか?」
 嬉しそうに一枚をさして彼女は言った。ぼんやりと遠くを見つめる横顔である。どこが素敵なのかも大いに気になるが、そんなことより気になって仕方ないことがある。そんな俺の気も知らず、彼女はアルバムのページをめくる。
「これはちょっと小さいんですけど、立ち方が良いのです」
 背中を冷たい手で撫でられたかのようで、一気に酔いがさめていく。笑顔の彼女を見ながらうまく笑えない。
「そうそう、この背中も素敵ですよね、ちょっと猫背の」
 彼女が開いたA4のアルバムに入ったたくさんの写真には全て一人の男が写っていた。しかもそのほとんどが横顔だったり後姿だったりと、レンズを見ていないものだ。
「えっと、これ」
 言いかけて、続く言葉を飲み込んだ。この写真について言及することに一体何の意味があろう。
「・・・素敵な先輩だね」
「はい。やっぱり先輩は素敵ですよね」
 彼女は幸せそうに笑う。
「絶対帰ってきてもらわなきゃ。話聞いてくださってありがとうございました。私、頑張りますね」
「うん、頑張って」
 全然頭が回らない。早くこの場から去りたいとそればかりを考えていた。
「それじゃあ、早速、作戦考えなきゃいけません。私、帰りますね」
「頑張ってね。俺も話聞けて楽しかったよ」
 早くこの場を切り抜けたくて、奢ると言っても彼女は聞かず結局割り勘になった。私が奢ってもいいくらいです、と言いながらぴったり半額分のお金をテーブルに置いた彼女はアルバムを丁寧に鞄にしまう。そしてそのついでといった雰囲気でスマートフォンを見た。
「・・・そうか、飛行機か。電源切られてる」
 ぽつりとつぶやいた彼女はもう俺のことなど気にしていない。そそくさと荷物をまとめて彼女が立ち上がる。呼び止めようと俺は口を開きかけたが、言葉が見つからずそのまま彼女の背中を見送った。
――先輩は、とても不幸な方なのです
 彼女の声が頭の中でぐるぐると回る。彼は帰ってくるのだろうか。根拠はないが、彼は必ず帰ってくる気がした。