城田やなぎが学校に来なくなったのは9月も半ばのころだった。もともとやなぎは月に1度か2度くらい熱を出して欠席するので、僕もクラスメイトたちも最初は気にしていなかった。ところが1週間経っても、2週間経って9月が終わっても、やなぎは学校に来なかった。そんなわけで僕は今日も担任から渡されたプリントを持って城田家に向かうのだ。もともと学校で友人が多いとは言えないやなぎと学校をつなぐものは、もう僕しかいない。一番近所に住んでいるクラスメイトが僕とはなんと不幸な。自分で言うのも残念な話なんだけれど、学校での僕というものは平凡極まりない一生徒にすぎず、クラスの中心にいるわけでもなければ別段頭がよいわけでもない。つまり、僕には学校で起こっていることをこと面白おかしく話すこともできなければ、今日の授業の内容を解りやすく説明することさえできないのだ。そんな頼りない架け橋なので、この2週間、やなぎと学校との距離は開く一方である。僕は一つため息をついて、城田と書かれた表札の下の呼び鈴を鳴らした。ぴんぽーん。
 さて、こんな頼りない架け橋を城田やなぎは満面の笑みで迎える。やなぎ曰く、クラスメイトの女の子より幼馴染の僕の方がいいんだそうだ。確かに前髪をゴムで縛って中学のジャージを着ている姿をクラスメイトに見られたくはないんだろう。
「これ、今日の分のプリント」
「ありがとう」
 そう言ってプリントの束を受け取ったやなぎはぱらりぱらりとプリントを眺めてふわりと一つあくびを漏らす。そして当たり前の顔をして来客用のスリッパを僕の前に落とす。
「やってくんでしょ、宿題」
「うん」
 この2週間で、やなぎの家にプリントを届けるついでにやなぎと宿題をすることが習慣となってしまった僕は、スニーカーを脱いでスリッパに履き替える。やなぎもそんな僕のことなど気にしないで何も言わずに自分の部屋へ入っていく。おいていかれそうになって僕はあわててやなぎを追いかける。
 僕も含めてみんな、やなぎが学校に来ない理由を知らないでいる。やなぎは昔から体調を崩して学校を休むことはよくあったが、理由なく休むことは今まで一度もなかった。学校だって部活だって、ずっと昔にあった地区の子ども会だって。そういうことをよく知らない別のクラスの人間なんかはやなぎのことを不良か何かだと思い込んでいるみたいだけれど、それは大きな間違いだ。
「アキちゃん、2問目、間違ってる」
「あれ?じゃあどうやんの?」
「方べきの定理」
「あー何だっけそれ」
 そう、やなぎは不良じゃないどころか成績でいうならクラスで1、2を争う優等生だ。
「なんで授業聞いてないのにわかんの?」
「アキちゃんが来る前に教科書読んでたから」
 にこりと笑ってそう答えたやなぎはとっくの間に宿題を終え、今は別の本を読んでいる。内容は昨日聞いた。哲学の本、だそうだ。学校に来なくなってからのやなぎは、毎日学校で退屈に授業を聞いている僕らとは比べ物にならないほど勉強をしている。それは哲学だったり科学だったり法律だったり、とにかくさまざまな分野で、やなぎの部屋はここ2週間で本だらけになっていた。やなぎは勉強が嫌いなわけではないのだ。
「なんで学校来ないの?」
 数多の高校生が勉強なんてしたくないと口癖のようにぼやきながらも学校に通っているというのに、これほど勉強が好きなやなぎが学校に来ないということが僕には理解できない。
「一人でもできるから」
 やなぎの言うことは尤もなのかもしれない。現に授業に出ていなくてもやなぎは教科書の内容を理解している。授業に出ている僕よりも、だ。けれど学校に行かないという抵抗を見せるメリットはどこにも見当たらない。
「一人じゃなくてもできると思うけど」
 僕がそういうとやなぎは少しだけ困ったような顔をした。そんな顔をされたら僕だって困る。基本的に僕はやなぎに甘いのだ。
「別にいかなくてもいいと思うけどさ」
 僕がそう言うとやなぎは悲しそうに笑って言った。
「私、心臓が人より早く動いているの」
「心臓が早く動いてる?」
 意味がわからなかった。けれど僕の反応はおそらく最も正しいものに違いなかった。首をかしげている僕にやなぎはにっこりと笑う。
「大福よりも早いよ」
 大福というのはうちで飼っている猫のことだ。小動物より早い心臓というのは人間としてありえるのだろうか。
「心臓が早く動くってどういう意味?」
「世界が鮮やかに見えるのよ」
 事実かどうかは別として、やなぎの言葉は魔法の呪文みたいに僕の心にしみこんだ。



「また、やなぎちゃんのところに行ってたの?」
 家に帰ると母親があからさまに不機嫌な顔で僕を迎えた。“城田さんちのやなぎちゃん”が学校を休んでいるということは狭い近所じゃ地球が回っているということと同じぐらい当たり前の常識になっている。もちろんそれは世間的に見たら褒められたことじゃないってことは僕にもわかる。
「僕が一番近所だから仕方ないよ。それにやなぎは僕より頭がいい」
「でも学校に行っていないんでしょう?」
 噂の影響か、昔はよくうちにも遊びに来ていたやなぎが不良になってしまったと信じ込んでいる僕の母親は、あるはずもない悪影響を恐れて、僕をやなぎから遠ざけようとしている。
「それでも宿題は僕よりできる」
 僕がそう言い返した瞬間、母親は目を吊り上げた。どうやら失言だったらしい。なんとか母親からだけでも理解を得るべく努力してはいるのだけど、あいにくそれは上手く行ったためしがない。
「じゃああんたは学校で何やってんのよ!」
 あなたが生んだ息子なので出来が悪いのはしかたないよ、と心の中で呟きながらも僕は負けを認めることに決めた。
 逃げ込んだ僕の部屋、ベッドの上で主の顔をした愛猫がにゃあと鳴いた。
「ただいま」
 家族の誰より僕に懐いた愛猫は機嫌よく尻尾を揺らして僕を眺める。猫というのは丸くなって眠るものと信じて疑わなかった僕だが、最近の愛猫はでーんと四肢を投げ出して横になって寝る。しかも僕の枕の上で。やなぎが大福と呼ぶこの猫の本当の名はさくら。メス4歳、体重は7キロ。手のひらサイズだったのは一瞬であっという間に巨大化してした。白い毛並みにピンク色の肉球、背中の右側にグレーのぶちがある。やなぎは出会ったときから彼女を大福と呼んでいる。グレーのぶちは豆なのかと訊ねてみたところ、餡子が透けて見えているのだそうだ。7キロの大福、しかも皮が透けるほどに餡子が詰まっている。想像するだけでなんと胃もたれがする、と僕なんかは思うんだけど、最近じゃ、いつの間にか父まで大福と呼ぶようになっていた。やってられない。
「さーくら」
 少々太りすぎていることは認める。それでも女の子なのだ、大福などという名前で呼ぶわけには行かない。我が愛猫は花びらのように綺麗な肉球を持つ、さくらなのだ。不思議そうに僕を見上げたさくらの、つきたての餅のように柔らかい腹はせわしなく動いていた。ベッドに僕も寝転んで、さくらの上下しているあたたかい腹にそっと耳を当ててみた。小さな心臓は僕の倍くらいの速さで命を紡いでいる。
「やなぎはお前より心臓が早いんだって」
 世界が鮮やかに見えると言ったやなぎの声を思い出していた。やなぎの言ったことの意味がわからなかった。やなぎが学校に来ない理由もわからなかった。やなぎの悲しそうな笑顔の理由もわからなかった。
「さくらと同じ世界が見たいよ」
 僕より幾分かは鮮やかな世界を見ているはずのさくらは、僕を慰めてなどくれなかった。押し付けられたままの僕の頭が邪魔になったらしい、愛しい肉球で僕の頭を押しやろうとしている。前足だけではたらず、後ろ足も使い、さらには爪まで立ててきたので僕はおとなしく退散した。結局僕はやなぎのことを何一つ解らないでいる。



 次の日、プリントを届けにいくとやなぎは家に居なかった。そしてそれは何日も続くことになる。

 次に城田やなぎを見たときやなぎは長い髪を金色に染めて、角の席で当たり前のように煙草を吸っていた。それはテストが終わって学校が早く終わった日の午後1時、学校から徒歩2分の場所にあるファーストフード店でだった。そこはハンバーガーの代名詞になりうる有名なチェーン店などではない。駅の向こうへしばらく歩いたところにチェーン店もあったそうだが、そっちは去年の暮れにつぶれたと聞く。結局のところ、値段も味も似たり寄ったりのこの2つの店の命運を分けたのはうちの高校からの距離に過ぎなかった。つまりこの店はうちの高校に通う生徒のおかげで生き延びていて、そのぐらいうちの高校生はこの店にはびこっている。そんな店に学校を休み続けているやなぎがいるというのは随分異常なことに思えた。そうでなくても、もう二度と会えないのではないだろうかと半ば本気で思い込んでいた僕はそれはもう驚いて、持っていたトレイを落とす有様である。乗っていたのが僕の昼食ではなくて番号5の札だったことだけが幸いだった。やなぎは煙の行方を眺めることをやめ、派手に間抜けな客を見る。やなぎと僕の目が合う。
「やなぎ」
「あ、アキちゃん、よくわかったね」
 うれしそうにやなぎは手を振る。
「よくわかったね、じゃないよ。何やってんの?」
「ポテトが食べたくなって」
 食べちゃったけど、とやなぎは煙草でポテトの箱を焦がす。隣に座ったおばちゃんが、ちらりとこちらを見てため息をつく。やなぎはそんなことなど気にせず、向かいの席においていたカバンを自分の隣に置く。座れということらしい。仕方なく番号5の札を拾い上げてやなぎの向かいに座った僕は、とりあえず最も自然な疑問を口にする。
「その髪、どうしたの」
 学校に来ないだけならまだしも、家から姿を消したことだってもちろん気にはなる。けれども、ほんの数週間で見事に別人のように変貌した外見を無視するわけにはいかなかった。
「変?」
「かわいい」
 何も考えずに答えたら、なぜかそんなことを言っていた。まぁ、仕方ない。校則だとか隣のおばちゃんの冷たい視線とかそんなのがどうでもよくなるぐらい、やなぎは金色の髪が似合っているのだ。
「でも、煙草はやめなよ」
 僕が言うとやなぎは不満そうに目を細める。
「言ったでしょ?私、心臓が早く動いてるの」
「それは覚えてる」
「だから、もうすっかり大人なんだよ。煙草吸っていいくらいの」
 心臓が僕より早く動いている幼馴染は僕より早く成人してしまったらしい。けれども、やなぎが煙草を吸っていることが僕は残念で仕方なかった。
「やめなよ。似合わないから」
 不登校・金髪・煙草なんてのはセットで出てくる単語だと思っていたけれど、やなぎの場合はそうではなかった。やなぎは髪を金色にしても違和感などなく、最初からその色の髪を持って生まれたみたいに見えた。金色に染めた髪は髪質が変わってしまったのか、栗色だったころより少し広がっている。そのせいもあって、やなぎは人形かなにかのようだった。
「似合わないかー」
 僕が言った自己中心的な理由はやなぎが煙草をやめるのに十分だったらしい。やなぎは残念そうに頷いて、煙草の箱とライターをコップの水に沈めた。
「久しぶりだね」
 優しい口調は何も変わっていなかった。少し安心して僕は近況を報告する。
「中間も終わっちゃったよ。あさって遠足」
「そっかー、もうそんな季節か」
「学校来る気にはならない?」
「ならないよ」
 やなぎの瞳の奥に懐かしさみたいな感情を見た気がしたのに、やなぎはきっぱりと断った。その理由はいつもどおり。
「だって私、心臓が早く動いているんだもん」
「心臓が早く動くのと学校来ないのってどう関係してんの?」
「大いに関係してるよ」
 深刻な顔でやなぎは僕を見る。
「だって考えてみてよ、ある日突然学校の授業が100分になって16時間ぐらい学校にいかなきゃ駄目だって言われたら退屈すぎて死んじゃうでしょう?」
 想像してみる。実際にそれが起こるとしたら僕みたいなちっぽけな人間は生きていられないだろうが、もし地球の自転速度が落ちて1日の長さが倍になって、それでも僕が生きていたなら。それは想像するだけでおそろしいことだった。時間の流れる速さだけが半分になって、僕の心臓の早さは変わらない。集中力は1時間と持たないままだし、16時間学校に行かなきゃならないかわりに16時間寝ていいよといわれたところでインフルエンザにでもかからない限りそんなに連続して眠れない。僕は同意することにする。やなぎが言いたい事はわかったし、心臓が早く動いていることの意味も少しだけわかった。
「それは確かに」
 僕が頷くと、やなぎはうれしそうに笑って、だから学校には行かない、と強い口調で言った。
「遠足も行かない?」
「行かない」
「じゃあ、デートは?」
 きっぱり断られて、僕はそれが残念で、僕がいろいろ考えるより早くその言葉は唇を離れてしまっていた。びっくりした顔で首を人形のように傾けて、やなぎが僕に聞き返す。
「デート?」
「うん、デート」
 2文字で説明するなら自棄だった。
「アキちゃんと?」
 まっすぐ向き合って、目を覗き込まれて、痛いくらいに思い知る。やなぎは飛びっきりの美少女だ。幼馴染という特権を振りかざしでもしない限り僕がやなぎの隣に並べないということは、嫌ってほどわかってる。そしてデートが幼馴染同士でするイベントでもないことだってわかってる。しかし言ってしまったものはしょうがない。
「うん、僕と」
 投げやりにそう言うと、目の前の美少女は信じられない答えを寄越した。
「いいよ、それじゃああさってはデートしよう」

 やなぎとの待ち合わせ時間は、なんと学校の遠足の集合時間より早かった。午前8時にファーストフード店の前と同じ席で待ち合わせをした僕らはそれぞれモーニングセットを頼んで、平日の朝というのが信じられないほど自然にテーブルに向かっている。
「みんなはどこ行くの?」
 みんな、というのはクラスメイト達のこと。2日前までは、僕ら、だった存在。
「スキー場。バーベキューするって」
 雪の積もっていないスキー場に行ってどうするのだ、と思われるかもしれないが、雪の積もっていないスキー場も悪くはない。候補地にスキー場を見つけた僕は、迷うことなく自分の貴重な一票をそこへ投じることに決めた。もっとも、それは今となっては関係ないことになってしまったのだけれど。あと30分もすれば、他の場所に行きたかったクラスメイトたちが僕の欠席を知って、無責任な僕の一票を恨むことになるかもしれない。まぁ、しかしそれは彼らがスキー場に行くまでの1時間ほどのことだろう。何しろ、雪の積もっていないスキー場は素晴らしい。管理されたあの広大な土地は一年の半分を空き地として過ごしているわけではなく、雪がなくともバーベキューだの展望台だのと人を呼び寄せるアイテムをたくさん抱えているのだ。そもそもスキーのできないスキー場に足を運ぶ人間がものすごく少ないので、夏のスキー場は何とか人を呼び込もうとアイテムを次々と充実させる。夏のスキー場の本気はすごい。バーベキュー施設なんかは近くの運動公園の2倍ぐらいは充実していて、しかも運動公園の300倍ぐらいは綺麗だ。しかしながら、夏のスキー場の努力はあまり人に理解されず、結局は地元公立校の遠足スポットに成り下がっているというのが事実である。それに加えて平日ということで、おそらく他に人はいないだろう。少しくらい羽目を外しても見逃される、絶好の遠足スポットを思うと無理にでもやなぎを遠足に連れて行くんだったと少しだけ後悔してしまうくらいだ。
「そういえば中学のときも行ったね」
 そう言ったやなぎの脳裏には多分僕と同じ景色が浮かんでいる。僕が雪のないスキー場の魅力を知ったのは中学の遠足でのことで、そのときもやなぎは僕と同じクラスだった。少しでも教師の目の届く場所から離れたい僕らは小京都とか呼ばれているしょうもない観光地で班別行動がしたいと主張したのだが、体育会系の暑苦しい担任が無理やり行き先をスキー場に決定してしまった。文句で遠足のバスが潰れるんじゃないかというほど担任を恨んだ僕たちだが、スキー場についた瞬間そんなことなど忘れ去った。バーベキューの施設はこれまで使ったどれより輝いて見えたし、広い芝生に僕ら36名しかいないというのも最高だった。不満を一つだけ挙げるとすれば、急な斜面ではサッカーがおそろしく難しい競技に変わってしまうということぐらいで、それ以外は文句もないほど素晴らしかったのだ。何を間違えたのか、ゴールが斜面の上側と下側に位置しているというどう考えてもフェアじゃないコートの、明らかに不利な下半分を守っている僕にやなぎが叫ぶ。アキちゃん頑張って。
「またサッカーとかするのかな?」
 やなぎがタイミングよくそんなことを言って、僕は思わずふきだした。
「それじゃあ明日は授業にならないな」
 次の日、慣れない斜面を全力で駆け回った僕たちは、経験したこともないほど酷い筋肉痛に襲われた。いったいどれ程の大差で僕らが負けたのかは覚えていないし、おそろしい筋肉痛もすぐに消えてなくなってしまったけれど、やなぎの声だけがずっと僕の中で消えなかった。アキちゃん頑張って。僕らが望めば、あの日の思い出は、今日ほとんど同じ思い出に塗り替えられるはずだった。けれども僕らは今日、スキー場には行かない。スキー場は遠足をする場所なのでデートには不釣合いだ。スキー場になど行きたくないのに行った中学の遠足と、スキー場はそんなに嫌いじゃなくなったのにサボろうとしている高校の遠足。そこにある僅かな矛盾は、やなぎが学校へ行かないことに付きまとう矛盾と少しだけ似ているのかもしれない。まだ出発していないどころかどこに行くのかも決まってないのに、随分遠くまで来てしまった気がして、やなぎの遠さを思い知る。
 ハンバーガーを僕が食べ終えるころ、やなぎがやっと、今ここですべき話題を口にした。
「今日、どこ行こうか」
 ここで、完璧なデートプランを予習なしで繰り広げられたら彼女の一人や二人居るんだろうけど、あいにく僕は過去にも現在にもそんなものが居たためしはない。ついでに言うなら予習もしていない。
「誰かが遠足来てるとやだしなぁ」
 それだけで僕らの行き先は酷く絞られる。僕らの学校は1クラスずつ別々に行き先を決めて遠足に行くので、全部で30箇所は行けない場所ができるのだ。いくつかのクラスがかぶっている場所を計算に入れて少なく見積もっても20箇所ぐらいは立ち入り禁止だ。
「だってサボりだもんね」
 やなぎが笑う。具体的なデートプランがなかっただけのことだが、遠足スポットを外すというのは素晴らしい着眼点だった。
「それじゃあ、科学館とかは?」
 科学館なんて遠足でしか行かないような場所ではあるが、学校から徒歩10分の距離にある場所へいく物好きなクラスは居ないだろう。
「いいね、ちょっと遠足っぽいし」
 そう言いながらやなぎは半分残ったハンバーガーをペーパーナプキンで包んでカバンにしまった。カバンの中で開かないかなって思ってから、僕が2つ食べる間にやなぎが半分しか食べていなかったことに驚いた。やなぎがこんなに小食だなんて知らなかった。
「おなか減らない?」
「後で食べるよ」
「お弁当だ?」
「そう、お弁当」
 随分ささやかで、しかもジャンクなお弁当ではあるが、徒歩10分の遠足にはお似合いだ。僕の分は道中のコンビニで買おう。ついでにおやつも買っておこう。いつでもコンビニで買えるはずのお菓子も、おやつと呼べばちょっとだけ価値が上がるような気がするから不思議だ。いつも歩いてる通学路も少しわくわくするような。遠足という魔法にかかった僕たちは、校門から次々と出発していくバスに気づかれないように街を歩く。



 休日の科学館はおそろしいぐらい誰もいなくて、閉館日じゃないかって一瞬不安になったぐらいだ。けれどもそれは僕らが早く着きすぎただけのことだった。9時少し過ぎに鍵を開けにきた係員は、入り口の前でチョコレートをかじっていた僕らにびっくりして、早いね、と言った。平日に開館を待ってまで科学館にやってきた子供2人はどう見ても怪しいはずなのに、その係員はそれ以上僕らに話しかけてはこなくて、その1点だけで僕は彼のことが好きになれる気がした。
 しかし、久しぶりに来て改めてみると科学館とは奇妙な場所だ。広大な芝生の上に並ぶのは見慣れた遊具ではなく、パラボラに風車、日時計、よくわからない謎の柱やトンネル。そしてその奥に奇抜なデザインの本館が見える。その本館に向かってベンチの並んでる小道をゆったりと歩く金髪のやなぎはその景色にあっているような浮いているような、とても不思議な感じがした。金色の髪がなびいて、ふわふわのスカートがゆれる。
「アキちゃん、早く行こう」
 あわてて僕は追いかける。やなぎの横に並ぶとき、少しだけ緊張して、デートだから大丈夫って自分に言い聞かせる。
 やなぎはプラネタリウムが見たいといった。けれどプラネタリウムの上映時間は平日だと1日2回しかなくて、早い回が1時からだった。平日の朝から、科学館の開館を待つ人間はこの町じゃ僕らぐらいしかいないらしい。仕方ないねってやなぎが笑って僕らは向かい合って水を飲み続けるおもちゃの鳥を眺めながらベンチに座る。鳥はゆれながら水を飲み続ける。隣にある説明は難しくてよくわからなかったけれど勝手にずっと水を飲み続けることだけはわかった。
「ずっと動くんだって。すごいね」
 ガラス製でちょっとグロテスクな、なぜかシルクハットをかぶった鳥には電池の影など全くない。それでも鳥はしばらく経つと水を欲してくちばしを水面に突っ込んで、そして何事もなかったみたいにゆらりと揺れる。
「でも水がなくなったら死んでしまう」
 冷たい、やなぎの声が誰もいない科学館のホールに響いた。がらんがらんと、どこかで鉄球の転がる音がする。
「永久に動き続けるものなんて存在しない」
 そう言い放ったやなぎは説明をきちんと理解しているようだった。けれど僕には鳥のおもちゃの説明も、その横で動き続ける大きな歯車に仕掛けられたトリックも、永久機関が存在できない理由もわからなくて、ただぼんやりと水を飲み続ける鳥と鳥を守っているガラスに映りこんだやなぎの真剣な顔とを見つめていることしかできなかった。
「永久なんて存在しない」
 もう一度やなぎがそういって、そうだねってわけもわからず僕は頷いて、そうして僕らは順路に従って歩き出す。


 1時。プラネタリウムの上映が始まる時間、僕は暇をもてあましていた。やなぎが眠ってしまったのだ。お弁当、というと随分聞こえはいいが、やなぎが朝のハンバーガーの残り、僕がコンビニのおにぎりという最低水準の昼食を取ってすぐ、早起きしたから眠くなった、とやなぎは芝生に寝転んでしまった。せいぜい30分程度の昼寝だろうとそのまま放っておいたのだが、1時間経ってもやなぎは起きない。起きないどころか、眩しい芝生の上で規則正しい寝息を立てて熟睡しているのだ。
「参ったなぁ」
 一人、呟いて僕は眩しい空を見上げる。寝るならプラネタリウムの満天の星空の下、座り心地のいいリクライニングの椅子に座ってにすればいいのに。そんなことを思って起こそうとしてみたんだけれど、眠っているやなぎが綺麗過ぎてどうしても触れることができなかった。無造作に緑の上にばら撒かれた金色の髪を眺めて僕はもう一度呟く。
「参ったなぁ」
 次の上映は3時半。まぁそっちでもいいや、って眠ったやなぎを見下ろして、僕は一人でおやつを食べている。

 やなぎが目を覚ましたのは眠ってからちょうど3時間が経とうとしているころになってだった。
「おはよう」
 本気で起きないんじゃないかと心配しかけていた僕が、その一言にどれほど安堵したかなんてやなぎが知るはずもない。
「プラネタリウムは?」
 少し寝ぼけてる、いつもより幼い声が僕に聞く。
「3時半のやつを見よう。あと1時間半あるけど」
「ごめんね、寝ちゃって」
「いいよ。早起きしたもんね」
 デートの最中に3時間も寝るとは、って感じなんだけども結局のところ僕はやなぎには甘いのだ。やなぎは嬉しそうに笑って、でもすぐにカラになってるお菓子の箱を見つけて頬を膨らます。それがすごく、かわいくて、心臓がきゅっと悲鳴を上げる。


「アキちゃん、寝てたでしょ?」
 プラネタリウムが終わってやなぎが僕を睨む。確かに早起きはしたんだけど、そんなに眠くはなかったはずだった。
「椅子が座り心地よすぎたんだ」
 自分でも呆れるいいわけだと思う。でも本当に気持ちよかったのだ。そして、早いね、って言われたときには全然気づかなかったけれど、あの係員は恐るべき癒し系ボイスの持ち主だった。そんなわけで星を見ていたら体が夜と勘違いして、いつの間にか眠りに落ちてしまっていたのだ。
「デートなのにごめん」
「ホントだよ」
 そういってやなぎはすたすたと先に行く。外はすっかり夕暮れで、朝はきらきら輝いていた異様なものたちも今は少しさびしげだ。もう少しで時計としての機能を失う日時計を見上げながら、なんだかなぁって小さくため息。中は全部見ちゃったから最後に外を見て帰ろう、と言ったやなぎは謎の柱を見上げている。
「何それ?」
「風が吹くと音が鳴るんだって」
 へぇ、と相槌を打ってみたけれど風は一向に吹く気配がない。やなぎもそれがわかったのか、次の展示へ向かっていく。
「アキちゃんはそっち」
 明るい声に振り向くとやなぎがパラボラの前でスタンバっていた。3メートルぐらい離れているけれど、囁き声も届けてくれるという噂の。
「なんか喋ってー」
 向こうのパラボラの真ん中に耳を当ててやなぎが叫ぶ。仕組みは理科かなんかでやった気がする。反射した声はまっすぐ向こうのパラボラを目指して、向こうのパラボラがその声を真ん中に集めるのだ。それはわかってるんだけれどいまいち信じきれない。真ん中にあるリングに口を近づけて、小さな声で話す瞬間、ちょっとだけ心臓が早くなる。
 向こうでやなぎが首をかしげるのが見えた。そしてすぐにやなぎは背を向ける。どうやら今度はやなぎが喋るらしい。あわてて僕はリングに耳を当てる。
「きこえなーい、も少しおっきく!」
 遠く離れてるのに耳元で囁かれたみたいでくすぐったかった。僕はリングに向かって呼びかける。
「もしもーし、聞こえますかー?」
 呼びかけたらすぐに耳を当てる。
「聞こえた。アキちゃん、すごいね」
 これで満足か、とやなぎの方を見たらやなぎはまだリングに耳を当てている。このまま会話しようというのか。少し考えて僕はまたリングに口を当てる。
「心臓が早く動くと、この世界はどう見えてんの?」
「普通の生活がのろのろしててすごく退屈に見える」
 そういわれて思い出すのは昼間に3時間も眠ったやなぎのことだった。彼女の時間がこの世界の2倍の早さで動いているのだったらそれはすごく常識的なことだった。3時間を2倍すると6時間。太陽が高く昇っていても彼女の世界では夜が来て、そして彼女は睡眠をとったのだ。
「不便そうだね」
「まぁまぁね。でもそればっかでもないよ」
 3メートル離れた内緒話はどこかスリリングだった。
「へぇ。便利なこともあるんだ?たとえば?」
 少し考えてやなぎが答える。
「流れ星が消える前にすごい長いお願いができる」
 1瞬で消える流れ星もゆっくりに見えるとしたら贅沢な願いもできるわけだ。
「なるほど、それは便利そう」
「今度、アキちゃんの分もお願いしてあげる。美人で料理の上手い彼女ができてデートしてもらえますように、って」
「え」
 思わず口を離れた呟きはやなぎには届かなかった。なぜなら僕は口ではなく耳をパラボラに当てていたし、たとえ口の方をパラボラに当てていたとしてもやなぎはすでにパラボラから離れてしまっていたのだ。どきどきと心臓が耳元で鳴っているみたいだった。あわててやなぎに追いついて、背中に向かって話しかける。
「聞こえてたんだ」
「何のこと?」
 静かにやなぎはそういった。僕らの家はものすごく近いので、科学館からの帰り道までデートは続いたのだけど、その間僕とやなぎは一言も喋らなかった。パラボラの精度を疑いながら、届いて欲しいような届いて欲しくないような微妙な気持ちで口に出した最初の言葉は、聞こえますか、なんて業務連絡みたいなものじゃなかったのだ。聞こえない、とやなぎに言われた最初の言葉は、ちゃんとやなぎのところまで届いてしまっていたのだ。
   ―好きなので、またデートしてもらえると嬉しいです。
 結論。僕の最初の言葉はやなぎには届いていた。けれど、やなぎの心には届かなかったのだ。

 遠足の次の週、僕は久しぶりに城田家を訪れた。もしかするとやなぎがいるかもしれないと思ったからだ。すぐに訪れなかったのは失恋という傷が癒えていなかったからなのだが、考えた結果、あれは聞こえていなかったことにしてこれからも今までどおりの関係を続けようって言う図々しい答えに決めたのだ。しかし僕がそんな一大決心をして城田家を訪れたその日、城田やなぎは家に居なかった。
「あら、アキちゃん」
「なんか、忙しそうですね」
 僕を迎えたやなぎの母親は外出しようとしていたようで綺麗な服を着て、けれども優雅なデザインのその服には似合わず急いでいるようだった。
「やなぎの入院の日なの。足りない荷物取りに来たとこ」
「入院?」
「あの子、病気でしょ?学校も休んで」
 頭の中が真っ白になった。だってそんなの全然聞いてない。
「ここのところあまり良くないから、入院することになったのよ」
 やなぎの母親がそう言って、僕の頭をあの遠足が過ぎる。病気だと知らなかったとはいえ、やなぎを朝の8時から夕方まで連れまわしてしまった。ハンバーガーを半分しか食べなかったやなぎ。昼だというのに3時間も死んだように眠っていたやなぎ。どうして今まで気づかなかったんだろう。あの日だってやなぎはいくつも僕にサインを出していた。ここのところ良くないからってそんなの入院の原因は明らかにあの遠足じゃないか。
「あ、アキちゃん?この前はやなぎに付き合ってくれてありがとう。あれは入院とは関係ないから大丈夫。」
 ここは土下座でもすべきだろうかと真剣に考えていると、よっぽど表情に出ていたらしい、おばさんが優しく笑って付け足してくれた。
「本当に、その前から入院は決まってたの。てっきりアキちゃんが入院の前にって誘ってくれたって思ってたんだけど違ったのかしら。やなぎ、アキちゃんとのデート楽しみにしてて」
 楽しみにしてて、とその一言で涙が出そうだった。やなぎが僕とのデートを楽しみにしていたのだ。
「でも、無理させてしまったんじゃないですか?」
「次の日少し熱は出たけど、大丈夫」
 よくあることだから、ってフォローのつもりなんだろうけど何の意味も無い。やなぎの一番近くに居るって思ってたのに、何一つわかっていなかった。ただ一つその事実だけが重く圧し掛かる。
「おばさん、あの」
 大荷物を持ってタクシーに乗り込む背中を思わず呼び止めた。
「今度、お見舞い行きますね」
 そう言った僕におばさんは病院と病室を教えてくれた。タクシーを見送りながら僕は黙って唇を噛み締めた。本当に聞きたかったのはやなぎの居場所なんかじゃない。
「やなぎの病気は」
 口に出してみたら案の定、声が震えて言葉にならない。おばさんに聞かなくて本当に良かった。やなぎがずっと僕に出し続けてきたサイン。
「やなぎは、心臓が悪いの?」
 口に出した瞬間、それが現実になってしまった気がした。何度もやなぎが言った心臓が早く動いているっていう言い訳が、頭の中で何度も繰り返す。
「やなぎが」
 わけが解らなくなって、立っているのさえ面倒になってその場に座り込む。その瞬間も、僕とやなぎの周りにあった世界は少しずつ色を変え始めていた。僕は膝の間に頭をうずめて、そんなわかりやすい変化にも気づかないくらいやなぎのことばかり考えていた。

 僕とやなぎの居た世界の変化に僕が気付いたのは、僕が家に帰った瞬間だった。
「アキラ」
 エプロンの裾で手を拭きながら僕を迎えた母親は僕の顔色を伺いながら口を開く。
「やなぎちゃん、入院したって本当?」
 僕は一つ頷いて、さくらを連れて部屋にあがる。風で崩れ落ちるトランプのタワーを見つめるみたいな母の目から逃げるのに必死だった。彼女の中でやなぎはすっかり可哀想な女の子に、僕は喪失感のど真ん中にいる危うげな少年になってしまっていた。そんなのは映画かドラマの中にだけいれば十分だ。僕の中でのやなぎは少しだけ我侭な愛猫を勝手に大福と呼ぶ元気な女の子のままで、突然の変化に心が追いつかない。今すぐやなぎに会いたかった。やなぎと僕の二人きり、手をつないで目と耳をふさぐ。世界から切り離されて、遠足のあの日みたいに穏やかな時間を過ごしたい。


 次の日、僕は学校を休んだ。別に体に不調があったわけではないが、母は何も言わずにそれを許した。わかっているわと言わんばかりの優しい目が僕をいらつかせたが、学校へ行くことを思えばマシだった。
 学校をサボって僕が行く場所など1つしかなく、いつもより遅めに朝食をとった僕は自転車で市民病院を目指した。市民病院までは自転車で40分。その間、僕はずっとやなぎのことばかり考えていた。やなぎに会いたいってそれは教えてもらった病室でやなぎの顔を見るまで続いた。
「失礼します」
 2人部屋の片方のベッドはあいていて、静かな病室でやなぎは一人本を読んでいた。
「あ、アキちゃんだ」
 のんびりした声でやなぎが言って、僕は会いたかったってずっと思ってたその言葉をそのまま言ってしまいそうになる。会いたかった、って何の告白だ。ギリギリのところでそう思い直して踏みとどまった僕は、次に思っていたことの方を口にした。
「入院って。びっくりしたよ」
「私もびっくりした」
 本にしおりをはさんで閉じながら、やなぎはそう言って笑った。
「私、心臓が人より早いだけなのに、病気だってみんなが大騒ぎしてこんなことになっちゃった」
「うん」
「心臓が早く動いてるんだから、みんなより早く死ぬのは当たり前なのにね」
 あっさりと、死ぬの2文字を口にしたやなぎは平然としていた。なんなら僕の方が死にそうな顔をしていたと思う。
「早く死ぬ?」
 オウムみたいにやなぎの言った言葉を繰り返す僕にやなぎは笑う。
「うん、多分。でもみんなの2倍で生きてるからヘーキ」
 あっさりと僕の言葉に肯定のいらえを返したやなぎは人差し指を立てて僕の唇にあてる。
「だから、学校のみんなには言わないでね。普通のことなのに特別扱いされたくないし」
 その気持ちは少しだけわかるような気がした。病気で入院したというだけで、うちの母でさえ態度を変えた。しつこいぐらいに自分のことを当たり前だとか普通だとか繰り返すやなぎがそんな扱いを望むわけがない。やなぎはきっと誰にも知られず、普通に人より早い一生を生き抜くつもりだったのだ。
「僕にも黙ってるつもりだった?」
「うん。ほんとはね」
 僕が入院の日に城田家を訪れてしまったのはやなぎにとっても誤算だったんだろうって、今になって思う。
「でもアキちゃんはいいよ。アキちゃんは私が学校に行ってなくても、金髪にしても普通に接してくれたから」
 やなぎはそう言って笑う。やなぎはそれを凄いことみたいに言うけれど、学校に行っていなくても金髪になってもやなぎは昔と何も変わらなかったのだから、僕が態度を変えなかったのは当然のことだった。そして入院しても、死が近くてもやなぎはいつも通りにここにいる。やなぎがいつも通りを望んで、当たり前にそこにいるのなら、僕はやなぎが死ぬまで普通に接することができるってそう思った。
「入院しても、だよ。今日はびっくりして学校休んじゃったけど」
「ありがとう」
「うん、またプリント持ってくる」
 
「やなぎ」
 帰り際、ふと思いついて僕は一つだけやなぎに聞いてみる。
「もし、やなぎの心臓が普通の早さで動いていたら、あのときの返事は変わってた?」
「うーん」
 少し考えてやなぎは答える。
「ないな。やっぱりアキちゃんはそんなんじゃないや」
「そっか。よかった」
 にっこり笑って僕は病室を出た。また振られてしまった。それでもあの返事がやなぎの本当の返事だったことが少し嬉しかった。心臓の早さなんて関係なく、やなぎはやなぎである。それならば僕だって変わらず生きていけるってそう思った。


 学校には相変わらず城田やなぎの空席がある。今となっては誰もその空席を気にしない。誰でも座れる便利な椅子ぐらいにしか思っていないんじゃないだろうか。当たり前のようにやなぎの椅子を使ってお弁当を食べる女子たちに、その持ち主が僕らの2倍の早さで生を紡ぎ切ろうとしているのを知る人は誰もいない。そして僕は今日も何食わぬ顔で1枚多くもらったやなぎの分のプリントをクリアファイルに入れている。

 城田やなぎの容体が急変したと連絡が入ったとき、僕は学校指定のセーターを探してクローゼットの中身をひっくり返していた。泥棒に入られたみたいな部屋をそのままにして、もうすぐ日付が変わるというのに出かける準備を始める息子を母は止めず、タクシーを家の前に呼んでくれた。出かける僕の手に父が1万円札を1枚握らせて、それでやっと自分が財布を持っていないことに気づいた。タクシーに乗り込んで病院にいくと、病院の前でおばさんが出迎えてくれた。そうしてたどり着いた病室にはお医者さんと看護婦さん、それからやなぎのお父さんが居て、そこにやなぎのお母さんが加わった瞬間に、やなぎはもう死ぬんだってそんなことを思う。ベッドサイドで母が泣き喚き、父が何とかしてくださいと担当医に詰め寄って、恋人が手を握って名を呼ぶ。そんなドラマの中で見たような死の光景はどこにもなく、それはキャストの一人、わかりやすく言えばつまり僕がやなぎの恋人ではないというのが理由でもないようだ。静かな病室に集まった人たちは誰もがもう諦めきった目をしていて、やなぎの死を待っているだけのように見えた。息が詰まりそうな空気の中、やなぎは静かに眠っている。思わず手を伸ばす、針の痕が無数に残る手は磁器のように白く冷たい。
「大丈夫だよ」
 やなぎの手に自分の手を重ねて、言うべき言葉は彼女の名前なんかじゃないような気がしてそう呟くと、向かいでやなぎのお父さんが一つ頷いた。僕のことなら、大丈夫。みんな覚悟は出来ているから、もう、頑張らなくてもいいよ。

 その夜、僕は初めて、心臓の止まる音を聞いた。





 城田やなぎが死んだ。そう聞かされた教室は静まり返って、女子が何人か泣きだした。休み時間になると当然その詳細を聞きに僕の周りは人でいっぱいになった。
「城田さんって何の病気だったの?」
「知らない」
「黒田くんずっとプリント持っていってたのに?」
 何を言われても知らないものは知らない。僕が何も知らないと連呼していると、一人の女子生徒がぼろぼろと大粒の涙をこぼす。
「入院していたのは知ってたんでしょ?なんで教えてくれなかったの?」
 教えてたら何か変わったの、とまでは言わなかった。やなぎが入院していると知ったところで僕らにできることは何もない。せいぜい委員長がお見舞いに行ったりとか、クラスで頑張ってねなんて寄せ書き書いたりとか、せいぜいそのぐらいのことしかできなかっただろう。もちろんそれが支えになるケースもある。しかし僕らの場合はそうじゃなくって、やなぎはそれを望まなかったのだ。
「黒田くんが教えてくれないから、あたしたち何も知らなくて」
 学校に来なくなったあと、一度だってやなぎに会いに行こうともしなかった、ただのクラスメイトの中でやなぎはすっかり悲劇のヒロインになり下がってしまった。やなぎが居なくなってやっとわかる。君はこうなることが嫌だったんでしょう?
「城田さんが可哀想」
 叫ぶような声でその子はそう言って、周りの女子も涙に目を潤ませて僕をにらむ。可哀想? 言葉にされるとそれはすごい違和感だった。彼女はやなぎのことを何も知らない。やなぎが金髪になって煙草を吸っていたこともやなぎが弱くやせ細ってしまったことも。そして彼女はそれを知ろうともしなかった。そんな彼女がやなぎの人生に、可哀想、なんて評価を下すのは何か違う気がした。僕だってやなぎの見ていた鮮やかな世界は見たことがないし、やなぎがこの人生をどう思ってるかだなんて知らないのだから、どうにも可哀想なんて思う気分にはなれなかった。可哀想なんて言う資格が僕らにはないのだ。ただ一つ、僕が知っていることと言えば、やなぎは心臓が早く動いてて、そのせいで2倍の早さで命を紡ぎきってしまったけれど、その分世界は鮮やかに見えていたってことだけだ。そんなわけないって言われるのは解っているからだれにも言えないけれど、やなぎがそう言ったのだからそれは僕にとって真実だ。だから僕はやなぎのことを可哀想だなんて思わない。


「これでいいよね」
 持ち主を亡くしてしまった部屋で、そこらじゅうに残るやなぎの面影に聞いてみた。気を抜くとすぐに鼻の奥がつんと痛んで、あわてて僕は深呼吸して誤魔化した。涙を流すことじゃないってわかってるのに、どうして泣きたくなってしまうんだろう。その理由をわからないまま、僕は必死に泣かないでいた。
 そうして僕は、葬式が終わってやなぎが骨になってしまっても、平気な顔で、涙なんて流さなかった。

 寝坊して待ち合わせの時間に遅れそうだと言うのに愛猫、大福が脱走した。
「大福!煮干し!煮干しやるから!」
 大福は高齢とは思えぬ俊敏さで僕の手の上の煮干しに飛びついて、無事に捕獲されたが、僕は一張羅の服が泥だらけになってしまい再び着替える羽目になった。初デートに浮かれて選んだ服は即洗濯機の中に放り込まれ、鏡の中に居るのは結局いつもの僕だ。いろいろプランを立てたところで僕のデートなんてこんなものであると諦めた僕は足に擦り寄る大福を押しのけて、今度は脱走されないよう慎重に家を出る。
 家から駅まで徒歩7分の道のりを走り、改札からホームまでの無駄に長い階段を駆け上がって滑り込んだ電車は、それでも予定していた電車の1本後だった。僕のデートなんてこんなものである。ばくばくと大きな音で心臓が血を巡らせて、脳が酸素を求めて悲鳴を上げる。胸に手を当てていつもの2倍近い脈拍を感じながらうっすらと目を開けて、流れていく窓の外の景色はいつも通りでため息をつく。もう少しであの子が見ていた世界を見ることが出来そうなんだけどな。それでもポケットの中で携帯電話が恋人からのメールを受信すれば、いつも通りの世界も魅力的だってそんな負け惜しみみたいなことを恥ずかしげもなく思う。



 美里さんの作る玉子焼きは甘くてふわふわしている。芝生に座り込んでお弁当を食べていると、遠くの方で透き通った音が鳴る。芝生の向こうに見えるのは一見ただの柱なのだけれど、風に吹かれると不思議で綺麗な音を鳴らすのだ。日曜の科学館は子供であふれていて、背伸びをした子供が2人パラボラに挟まれて内緒話を繰り返す。付き合って1週間になる僕の恋人は、僕なんかにはもったいないくらいの美人でオマケに料理がすごく上手い。これはどう考えてもあの子がお願いしてくれたからに違いないってそんなことを思ったら、初めてのデートで行く場所なんて1つしか思いつかなかった。
「高校のとき、」
 大人になるにつれてあの子のことを思い出す回数はずいぶん減っていた。それでも、この場所であの子の話をすれば鮮やかに金色の髪が蘇える。
「遠足サボってここでデートしたんだ」
 食べかけのハンバーガー、多すぎるおやつ、水飲み鳥、プラネタリウム、そして、城田やなぎ。僕の大好きだった女の子。
「アキラくん?」
 美里さんがハンカチを差し出して、それでやっと自分が泣いていることに気づいた。やなぎのことで泣くのはそれが初めてだった。ただのクラスメイトだったはずの女子がやなぎを可哀相だと泣いているのを見ても、やなぎのお葬式が行われても、僕は最初から覚悟が出来てた振りで泣かないで居た。やなぎは僕らの2倍以上の速さでちゃんと生き抜いたし、僕はそれを知って悔いなく彼女と接してきた。やなぎは可哀相じゃないし、僕が泣くことじゃない。そう思って、学校でも家でもずっと泣かずにいたのだ。
「パラボラで告白して、振られて、」
 ついでに病院でもう一回振られて。
「美里さんみたいな彼女が出来るようにお願いしてくれたんだ」
 霧散していた記憶が少しずつ集まって、あの日の像を結ぶ。
「やなぎ、」
 本当に、僕なんかに美人で料理が上手い彼女が出来て、そして僕はこうしてまた科学館でデートしている。全部やなぎがお願いしてくれたからなんだ。美里さんは辛いものが大好きで、この前エビチリを作ってもらったときは辛すぎて全然食べられなかったんだけど、今日はほら、こうして甘い卵焼きを作ってくれたんだ。
「僕は」
 美里さんのことをやなぎに言いたかった。美里さんのことだけじゃない、新しいクラスのこととか、卒業式のこととか、大学のこととか、もっと、僕はもっとやなぎといろんなことが話したかった。やっと見つけた涙の理由はすごく単純でわかりやすかった。
「僕は、やなぎがいなくて寂しい」
 あのとき泣きたくなったその意味を口に出してしまうと、次から次へと涙が溢れてきて止まらなくなった。
「ごめん」
 美里さんのハンカチで涙を拭いた、僕の右手を美里さんが握った。涙でぐちゃぐちゃの僕の顔を優しくなでて美里さんが言う。
「もっと泣いてもいいんだよ」
 5年ごしの涙はずっと胸にあった氷をすべて溶かして、あの日から止まってしまっていた心の片隅に命を吹き込んだ。やなぎが居なくなった事実をきちんと理解するのに、僕は5年もかかってしまったのだ。
「もう、大丈夫」
 自分に言い聞かせて、美里さんの優しい手を握った。相変わらず僕の心臓は規則正しく緩やかに生を紡いでいる。やなぎの見ていた世界を見ることができないのはすごく残念だけれど、この世界もそれほど悪くない。大きく息を吸って僕はゆっくり目を開く。涙で曇った視界の隅で、芝生に立つ柱がキラキラと透き通った音を立てた。やなぎ、僕はもう、大丈夫だよ。僕は僕のスピードで、やなぎが駆け抜けた一生を、ゆっくり歩いて生きていく。