夏の恋人

01

 深い緑に大きな少女の横顔が描かれていた。白い横顔は優しく微笑を湛えており、風を孕んだ豊かな長い髪は柔らかなカーブを描く。穏やかで暖かい時間をそのまま止めてしまったような世界で少女は幸せそうに目を細めている。それを見て香奈は絶望に近い気分で自分の髪を右手で掴んだ。短く切ってしまった髪は引っ張ったところで伸びる気配などなく、このまま引きちぎってしまいたいとさえ思える。
 昼間は退屈な数式や構文が並んでいたはずの黒板は今やキャンバスと化し、無機質な白い木枠が少女の青白い頬を引き立てている。西から差し込むオレンジ色の日の光に頬が色付いて、最初からそれが計算されていたみたいに見える。もしかしたら、それが作者の意図なのかもしれない。そんなことを考えながら香奈は教壇に登った。近づくと少女を形作る無数の粒子が個々の色を主張しているのがわかる。白、黄色、青。手が届くほどに近づいてみても、この少女が、あの頭の痛くなる文字ばかりを連ねているのと同じものから生まれたとは思えない。無数の粒子たちは混ざり合って溶け合って、繊細なグラデーションを生み出す。たった3色から生み出された少女は、あるはずのない色まで纏っているようで瑞々しく、今にも動き出しそうだ。手を伸ばせば細く長い髪の毛が指に絡みそうな気さえする。描かれた少女を香奈は識らない。それでも、たった3色からここまで鮮やかなポートレイトを生み出してしまう人物のことは識っている。大きなキャンバスの隅には繊細なグラデーションを作り上げたのと同一人物が書いたのだとは到底思えない、不恰好な文字でタイトルが綴られていて、それは香奈にとって見覚えのある字だった。少し目を閉じてみれば、真剣な表情でキャンバスを眺める篤生が目蓋の裏に映る。
 香奈は篤生の絵が好きだった。弘法が筆を選ばないように、篤生がキャンバスや画材を選ぶ事はなかった。篤生の前ではルーズリーフも、藁半紙のテストも、レシートだってキャンバスに変貌できる。そしてそんなキャンバスには鉛筆やサインペンやラインマーカーが繊細で鮮やかな作品を生み出すのだ。1年前に何かの賞を受賞してからは、篤生もきちんとしたキャンバスにちゃんとした画材で描く方が多くなっていたのだけれど、香奈はそれを少し残念に思っていた。規格どおりのキャンバスに描かれた篤生の絵は少し窮屈そうで縮こまっているような印象がある。絵の良し悪しなど香奈にはわからないが、偉そうな額に収まっている篤生の絵より、本来作品には成りえないものに描かれた篤生の絵が香奈は好きだった。だから、教室の黒板いっぱいに篤生の絵が描かれているのに気付いたとき、香奈はたまらなく嬉しかった。以前は教師から叱られるほど頻繁だったはずのこれを見るのは、思い返せば半年振りのことだったのだ。けれどその幸福はすぐに絶望となって香奈に襲い掛かることになった。委員会だからってショートホームがいつもより早く終わって、やる気のない表情で委員会に向かう篤生の後姿を見送った。それから今までの、一体どの時間に篤生がこの少女を描きあげたのか、香奈にはわからない。それでも篤生が何を思ってこの少女を描きあげたのかはわかる気がした。絵ではなくて、不恰好な文字が語りかけてくる。たった2文字のタイトルが、重く香奈に圧し掛かる。
 恋人
 その文字を見て初めて香奈は自分の気持ちを知ったのである。香奈は、篤生の絵だけではなく篤生の事も好きだったのだ。それを香奈に気付かせたのは皮肉にも、篤生の描いた恋人だった。描かれた長い髪の少女は香奈ではないし、その少女を香奈は識らない。柔らかに浮かべられたその笑みを壊してしまいたい衝動に駆られて香奈はそっと手を伸ばす。けれど、どうしても香奈の指先は迷ってしまい、少女に届く事はなかった。香奈は篤生の絵がどうしようもなく好きなのである。



 黒板ではまだ、見知らぬ少女が笑っている。どんなに髪が伸びても、香奈は自分が絵の中の少女のように笑えるとは思えなかった。絶望に耐え切れず、崩れ落ちるように蹲った香奈の小さな背中を、まるで抱きしめるように優しく教卓が包み込んでいる。

02

 広さも創りも置かれているものも自分のと同じだというのに、どうしてこんなにも居心地が悪いのだろうと篤生は思う。委員会で無理やり座らされている、他所の教室の他人の机は篤生にとって耐え難いほどの苦痛をもたらしていた。ショートホームが終わったばかりで、まだ本当の住人たちが居残っていると言うのが居心地悪さの原因の一つになっている。日当たりのいい窓際という最高の場所に、荷物がない、人もいない、明らかな空席を見つけて座ったのは良いが、明日の予定を確認する人の群れに飲まれていると、自分が異質だと思い知る。もし、委員会が始まる前に机の上のそれに気づかなかったら篤生は迷うことなく委員会を放棄して、居心地の悪い牢獄のような教室から逃げ出してしまっていた事だろう。けれど、彼は見つけてしまったのだ。居心地の悪さに俯いた、篤生の目に飛び込んできたのは机に綴られた文字列だった。つるりとした机に鉛筆で書かれた文字列は、擦れて滲んでおり、何を書いてあるのかほとんど読めない。それは文字列というよりは机の模様に近い状態だった。被害が最も少ない1行目は恋人。行頭に丸が描かれているのを見る限りそれがタイトルなのだろうか。流行歌の歌詞かもしれないし、自作詩なのかも知れない。もしかしたら誰かに当てたメッセージかもしれない。そんなことを思って、篤生は誰が書いたのかわからない、その文字列に夢中になった。そっと机に指を這わせて笑みを湛える篤生の横顔は、まるで愛しい人を前にしているもののようにさえ見える。一体何が書かれていたんだろうか。どんな人が書いたんだろうか。騒がしい教室で、篤生はひとり、そんなことに思いをめぐらせる。
 篤生がそんな文字列から目を離して顔を上げたのは、委員会が始まりそうな雰囲気になったからではない。ほかのクラスの委員が揃い、委員長が議題を黒板に書き始めた教室で篤生が顔を上げたのはごく自然な行動だったため、誰一人として気に止めたりはしなかった。けれど、顔を上げる直前、篤生は確かに誰かの視線を感じたのだ。あたりを見渡すと、この教室最後の住人が逃げるように去っていくのが目に入る。制服の後姿、長い髪を揺らして去っていく少女を篤生はじっと見つめた。
 これを書いたのはきっと彼女だ。
 根拠のない、馬鹿みたいな考えが脳裏に浮かんで頭を埋め尽くす。そんなわけがないと思えば思うほど篤生はその考えに囚われて行く。朧気だったはずのこの机の持ち主は今、篤生の中ではっきりとイメージになっている。長い髪を机に落として一人の少女がひっそりと詩を綴っている。届くあてのない思いを文字に変えて鉛筆を走らせている。そして彼女はそんな文字列を大事に隠して、何事もなかったかのように授業を受けているのだ。しかし彼女にとっての誤算は今日の放課後に委員会があるということだった。このままでは自分の思いが見知らぬ誰かにばれてしまう。そう思った彼女は慌てて掌で自分の思いを拭って、教室を逃げ出したに違いない。そして、見知らぬ誰かである自分がこの文字列に気付きやしないかとはらはらしながら見守っていたのだ。
 篤生の妄想は、まるでそれが事実であるかのように鮮やかに形を成していった。後姿しか知らない少女のことを思いながら篤生は机の上の文字列を撫でる。消えてしまったこの思いは自分が汲み取らねばならない。委員会の間、ずっと篤生はそんな義務感に駆られていた。篤生の指になぞられるたびに文字は更に滲んで形を失い、篤生の中で少女の横顔に姿を変えていく。
 委員会が終わるなり、篤生は教室を飛び出した。風の中で柔らかい微笑を湛えている少女を胸に抱いて。
 うっすらと残っていた最後の授業の名残を消して、篤生は短いチョークで黒板に柔らかなラインを描く。彼は無粋な教師たちのように力任せに線を描いたりはしない。優しく撫でるように、緑の上に色を乗せていく。白と黄色と青。混ぜるように重ねて、掌で伸ばして、また色を重ねる。一見創造と破壊の繰り返しに見えるその作業を篤生が何度か繰り返せば、繊細なグラデーションが少女の横顔を形作っていく。たった3色で色鮮やかな少女を描くことは酷く難しく、根気の要ることだった。少ない小遣いとバイト代を遣り繰りして絵を描いていたころは、絵の具もキャンバスも買えずに黒板やプリントの裏にばかり絵を描いていた篤生だが、1年前に新聞社の美術コンクールで大賞を取って以来、絵を描くことはそれほど大変な事ではなくなっていた。彼が望めば周りの大人たちがいくらでもまっさらなキャンバスと高価な絵の具を買い与えてくれるようになったのだ。それでも篤生は黒板に、たった3色のチョークで少女を描いた。永遠に色あせない絵にしてしまっては全部偽物になってしまうような気がしていたのだ。これを見たら美術教師はまた不機嫌になるんだろうか。そんなことを思って篤生は笑う。賞を取ったばかりのころ、長い習慣を変えることが出来ずに篤生は黒板やプリントの裏に絵を描き続けた。そしてそれを見るたびに美術教師は不機嫌になったものだ。その理由なら篤生だってわかっている。何を描いたってキャンバスが黒板やプリントの裏なのでは出展できないからだ。この絵は新聞の片隅で大勢の目に晒される事はない。黒板に描いた少女はここが学校である限り明日の始業時には消される事になるんだろう。美しい少女が消され、退屈な数式が書き連ねられるだろう明日を思うと篤生は自然と笑顔になった。名も識らぬ、宛ても知らぬ少女の思いはそれで良いのだ。篤生の長い前髪から、チョークの混ざった不透明な汗が落ちる。それでも篤生は手を止めない。そうして、チョークまみれの前髪が額に張り付くころ、黒板は一つの作品に変貌していた。穏やかに笑みを湛えて遠くを見つめる少女の胸に抱いた気持ちを、その瞳に映る姿を篤生は識らない。



 チョークまみれの手を洗って教室に戻る途中、篤生は思わず足を止めた。ほんの数時間ではあったが恋に近い感情を抱いていた少女がそこに居たのである。何を思ったのか、少女は篤生の教室に向かって駆け出した。待って、とその一言が云えなかった。それでもそのままでは居られなかった。伝えたい事も、かける言葉も整理が付かぬまま篤生は少女を追いかける。

03

 放課後の慌しい空気に包まれて雅臣は目を覚ます。身体を起こすと汗ばんだ右肘が机にすれて、きゅっと小さく音がなった。時計を見るといつもの終業時刻より少し早い。今日は委員会があるから短縮授業だったのだ。通常ならいつもより長く部活が出来ると喜ぶ雅臣だが、左足を骨折しているのだからあまり嬉しくはない。今朝、病院に行って、左足を覆っている忌まわしいギプスは今週末で外しても大丈夫だと言われたが、それでも雅臣にとっては遠すぎるぐらいだった。ギプスが取れてもすぐに走れるようになるとは思っていない。ちゃんと元通り練習メニューに参加できるようになるまで、雅臣はダイヤモンドの片隅でボールを磨き続けるのだ。それは雅臣が自分で言い出したことだった。全く練習に参加できないよりはそっちの方がマシだろうと思ったのだ。けれど、やはり雅臣は野球が好きなのだ。当たり前のように自分がしていた練習をしているチームメイトを見ているとやはり自分もやりたいと思ってしまう。雅臣は自分で言い出したことを取り下げるような性格ではなかったので、結局ボールを全て磨いてから帰るというのが雅臣の習慣となった。





 部活に行くと委員会があるせいで、随分部員が少なかった。人数が集まるまで練習をどうするかと相談している部員を横目に雅臣はボールを磨き始める。ベンチに座って雅臣がボールを磨いていると、がやがやと美化委員が通り過ぎていく。一応ゴミも拾っているらしいが、大半は喋っているだけのように見えた。ぼんやりと人の群れを眺めながら自分のクラスの美化委員は誰だっただろう、などと雅臣は考えにふける。しかし雅臣が消去法でその名を思い出すより早く、最後尾を歩くクラスメイトの姿が目に入ってしまった。日焼けを気にしているのか、頭からタオルをかぶってだらだらと歩いているその少女と雅臣はそれなりに仲がいい。ボールを磨く手を止めて雅臣は手を振ったが、少女は気付いていないのかつまらなそうに歩いているだけだった。あれだったら自分の方が美化に協力しているんじゃないだろうか。そんなことを考えながら雅臣はもっと重要なことを思い出す。病院に行ったあとで登校した雅臣にその少女は明日物理の小テストがあることを教えてくれたのだった。それを思い出した雅臣は思わず顔を顰めて舌打ちをした。物理の参考書を机の中に置いてきたことを思い出したのだ。両手が松葉杖に塞がれている状態で鞄を支えるのは雅臣の首以外になかった。手で持つよりずっと鞄は重量を増しているように感じ、そのため彼は極力教科書を置いて帰るようにしているのだ。けれど小テストから目を逸らすわけには行かない。取りに戻る事を決めて、雅臣は一つ溜息をつくとまたボールを磨き始める。
 最後のボールを磨き終えて雅臣は伸びをした。今からまた教室に戻らなくてはならないのかと思うと憂鬱で、横目で睨むように教室を見る。そこで雅臣は右の肘が黒く汚れている事に気が付いた。ごしごしと汚れを左手の親指で擦って、今朝、病院で見た老婦人のことを思い出す。黄緑色の花の前、恋人を想って泣くその人は酷く綺麗に見えた。恋をすると女性が美しくなる、というのはあながち嘘じゃないと雅臣は思う。けれどそれはやっぱり間違いなのだ。女性が一番美しくなるのはきっとその恋を失ったときなんだろう、と雅臣は老婦人の横顔を思い出す。年齢など関係ないとさえ思えるほどにその姿は美しく見えた。黄緑色をした花の名前など雅臣はすっかり忘れてしまっていた。なにやら難しそうな名前だった事しか覚えていない。それでも雅臣はその花が下げていたプレートの、花の名の下に書かれていた言葉だけは覚えていた。だからそれを忘れないようにと机の隅に書き留めておいたのだ。雅臣は自分の頭がそれほど良くはないことを自覚していた。だから、いつかその花のことも老婦人のことも忘れてしまうのではないかと、そう思ったらそれを書きとめずにはいられなかったのだ。忘れていない事を確かめるように雅臣はその言葉を口の中で呟いて立ち上がる。右肘は随分汚れてしまっていて、もしかしたら机のメモは消えてしまっているのかもしれないと雅臣は思う。それでも雅臣がまだそれを覚えていると証明しているかのように、右肘の黒ずみは消え去っていなかった。



 教室に戻ると机の文字は2文字を残して消えていた。もう一度右ひじを擦って雅臣は参考書を青い鞄に放り込んだ。鞄を首から提げるとき、汚れた自分の机が目に入る。2文字が滲んだにしては汚れすぎているのだが、それでも雅臣はそんなことなど気にも留めない。首に食い込む鞄の重さがそれどころではないのだ。そんな雅臣でも、やはりその光景に足を止めずにはいられなかった。ふと扉の開いた教室を覗き込んだら、教壇に隠れるように女子生徒が一人蹲って泣いていたのだ。誰かを想って涙を流すその横顔が、今朝の老婦人に重なった。まるで彼女が若返ったかのように見えて、雅臣はその場に立ち尽くす。

04

 鞄の中からピンク色のランチボックスを取り出して彩香はいつも通りに雅臣の席へ行く。雅臣の隣の席に座っている葉月は彩香の親友なのだ。5月の席替えで雅臣の近くになれなかったのは酷く残念な結果ではあったが、それでも親友が彼の近くになったのは彩香にとって幸運だった。それを口実に彩香は数分前まで雅臣が突っ伏して寝ていた机を当たり前の顔で使う事ができるのだ。
 いつも通り机をあわせて葉月と昼食を取って、彩香がそれに気づいたのは食事を終えた葉月が席を立ってからのことだった。机の隅、ひっそりと雅臣の文字が並んでいた。
 夏の恋人
 それを見た瞬間に彩香は目の前が真っ暗になった。彩香は夏が好きなほうではない。誕生日は1月だし、そのせいか、寒いのには強いが暑いのは苦手だった。日焼けだって気になるし、最近続く初夏の陽気は彼女から確実に食欲を奪っていた。太陽が西から昇ったとしても彩香に夏が似合う日は来ない。それは彩香が一番わかっている。それなのに雅臣の机にはその忌まわしい単語が綴られている。夏の恋人、という単語に考えをめぐらせた彩香が一番にたどり着いたのは親友の葉月だった。葉月は名前の通り8月に生まれ、健康的な小麦色の肌が似合う素敵な女の子に成長したのだ。いつの間にか雅臣と葉月は付き合っていたのかもしれない。そんな不安が彩香の心に黒い影を落とす。きっと葉月は彩香が雅臣を好きだと知っているから、それを言うに言えずにいるのだ。
 教室を見渡して雅臣が居ない事を確認すると彩香は雅臣の筆箱を勝手にあけて、忌まわしい文字の下に言葉を連ねはじめる。彩香の長い髪が手元を隠し、周りからその文字が見えることはない。そうして、薄暗い守られた空間の中で彩香は小さな文字を綴っていく。好きだった。でも、諦めようと思う。そんな思いを自分の胸に刻み込むような表情で、彩香は雅臣の机に文字を綴った。
 もともと不釣合いだったのだ、と彩香は思う。野球部で活躍する雅臣を思い浮かべると、どう考えても自分より葉月の方が似合っているように思える。夏の恋人、と雅臣の文字が頭から離れない。彩香の頭の中では雅臣と葉月が肩を並べて笑っている。夏の恋人と言う言葉はまるでその2人のためにある言葉のようにさえ思える。失恋というのはもっと悲しい事なのだと彩香は思っていた。けれどどうやら違ったらしい。鮮やかに脳内で描かれた雅臣と葉月は似合いすぎていて嫉妬する気にもなれないのだ。幸せにね、と書き足して彩香は笑みを浮かべている。
 無粋なチャイムが昼休みの終わりを告げて、彩香は逃げるように自分の席に戻った。それから放課後まで彩香は雅臣と葉月から逃げるように過ごして、やっとの思いで一息ついたのは雅臣も葉月も居ない委員会の教室でだった。彩香のいるのは美化委員という罰ゲームのような委員会で、今日も仕事は校内のゴミ拾いだ。どう足掻こうと夏が似合うようにはならないと、それは彩香が一番知っていた。だから彩香はいつも通りにタオルを頭からかぶり、白い手足を紫外線から守りぬくことに徹することにした。
 そうして彩香がグラウンドの周りのゴミを拾い集めながらだらだらと最後尾を歩いていた、そんなときだった。練習している野球部から少し離れた青いベンチで雅臣がボールを磨きながら彩香に手を振る。左足を骨折している雅臣はいつもそうしてボールを磨いているのだ。彩香は勿論それを識っていたけれど、無理やり気にしないようにしていたのだ。手を振る雅臣に、平然としなければならないとどんなに言い聞かせても彩香は顔を上げることが出来ない。俯いたまま、タオルに隠れて通り過ぎる。雅臣はしばらく手を振り続けていたが諦めたようでボール磨きに戻ってしまった。そんな雅臣をこっそりとタオルの隙間からのぞき見て、彩香は一人、唇を噛んだ。



 長引いた委員会の帰り、雅臣を見つけるとやはり彩香の胸は高鳴った。雅臣はあのメッセージに気付いてしまっただろうか。そう考えて、彩香はひとり首を振る。雅臣があんな小さなメッセージを見落とす可能性が十分にあることを彩香は知っているのだ。昼休み、彩香があのメッセージを残してから雅臣はずっと机に突っ伏して眠っていた。だから、大丈夫。自分に言い聞かせるようにそんなことを思って、次はちゃんと自分の口で伝えなくては、と彩香は走り出す。

05

 待合室の片隅でひっそりとその花は咲き誇っていた。黄緑色の小さな花が藤のように連なっており、その房が2つ裾の方で絡げてある。2つの花房の滑らかな曲線でハートを描いているのだ。芳子は引き寄せられるようにその花のほうへ歩いていく。何も考えることなど出来なかった。芳子はひどく疲れていたのだ。夫がこの病院で静かに息を引き取ってから、葬儀の手配や親族への連絡を全て独りで済ませ、葬儀が終わったのがつい一昨日だ。それは夫と同じだけ年齢を重ねた芳子にとってはかなりの重労働だった。今日、病院関連の手続きを済ませれば、やっと全てが片付く。そう思うと長年連れ添った夫を失った哀しみや独り残された寂しさより先に疲れが訪れた。疲労のあまり何も考えられずに、それでも芳子はぼんやりとその花を眺めた。
 贅沢なハートの中央には深い青色のプレートがかけられている。グラマトフィラム。それがこの黄緑色をした花の名前のようだった。その下には花言葉なのか、商品名なのか、花の名前よりよっぽどわかりやすい日本語が並んでいた。
 夏の恋人
 爽やかな黄緑色の花が芳子に夏の風を運ぶ。そう言えば、夫と初めて会ったのはこんな夏の日だった。長い年月ですっかり忘れていた遠い日々が色鮮やかに蘇る。何度も過ごした夏の日が、鮮やかさを纏ってこみ上げる。
 大丈夫ですか、と声をかけられて芳子は慌てて顔をあげた。声のした方を見れば見知らぬ少年が心配そうに芳子を覗きこんでいた。感じのいい少年だ、と芳子は思う。日に焼けた健康的な顔に白いシャツがよく映えていた。少年は首から青い鞄を提げて、窮屈そうに松葉杖を付いて、それでも困った顔で芳子を見ている。そのときになって初めて、芳子は自分が泣いている事に気が付いた。慌てて芳子は頷いて目尻に残った涙を拭う。けれど芳子の目からはとめどなく涙が溢れ出た。少年は何も言わずに涙を拭う芳子の手を取って、皺だらけの芳子の手を握った。手放された松葉杖がスローモーションのように倒れる。
 傍から見ればそれは、傷心の祖母を慰めるよく出来た孫のように見えた。けれど、少なくとも芳子にとって少年は孫などではなかった。暖かな手の温もりを確かめて、芳子はただ涙を流す。芳子にとって少年は恋人以外の何物でもなかった。きっと、あの人が心配して来てくれたんだわ。そんなことを思って芳子は空いているほうの手で涙を拭うと顔を上げた。ハート型の花が芳子に笑って、芳子もそれに返すかのように笑って見せた。大丈夫、と言って芳子が少年の松葉杖を拾い上げると、少年は少し照れくさそうに笑って見せた。
 松葉杖をつきながら去っていく後姿を見送って、芳子は一人深呼吸をする。多分、芳子は終わらせてしまうのが怖かったのだ。夫の死を片付けてしまって、全てを過去にして忘れてしまうのが怖かったのだ。黄緑色の花を優しくなでて芳子は笑う。夏に出会った恋人は、夫婦となって死別してもなお芳子の心の中に生きている。それを胸に抱いて芳子は歩き出す。受付に居る職員の目に映った芳子は強く、夫を失ったばかりの妻の姿にはとても見えなかった。その姿はまるで恋をしている女のようであった。



 病院からの帰り道、チャイムの音に芳子は顔を上げる。そう言えばあの松葉杖をついた少年は高校の制服を着ていたな、と思う。オレンジ色に照らし出された校舎の中にその少年がいることを芳子は知らない。ただ、夫と初めて会った日のことを思い出したのだ。学生だった夫がそこにいるような気がして芳子は皺の刻まれた顔に笑みを浮かべる。夕暮れの少し湿った空気が芳子の髪を揺らした。夕日に照らされた芳子の横顔はまるで絵の中の少女のように見える。