Sweet Girl

 高校生になって、初めて制服なるものを着たのが酷く遠くに思える。また大嫌いな春がやってきた。まだチョコさんが居るんじゃないかなって屋上に来てみたんだけど、やっぱりチョコさんは居なかった。春の風がグラウンドのサクラの花びらを巻き上げて、僕に花粉を運んでくる。くしゃみを一つ。くしゅっ。今年も僕は花粉症。去年より辛くないのは、春の思い出にチョコさんが居るから。クシャミくん、って頭の中でチョコさんの声がリフレイン。目を閉じたら瞼の裏でショートボブの髪の毛が揺れて、甘い声が何度もなんども繰り返す。スプリング、ハズ、カム!

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 初めてチョコさんを見たのは今からちょうど1年前ぐらい。僕はまだ隣の校舎にいて、チョコさんは一人で屋上にいた。その日は強烈に花粉が飛んでいて、花粉症の僕は何とかそれから逃れたくて教室の窓を閉めようとしていた。緑豊かな立地、なんてアピールポイントは僕にとってはどこまでもマイナスイメージに過ぎない。毎年毎年、誤魔化しながら過ごしてるけど、やっぱり春は辛くて厭な季節だった。風が心地良いのは認めるけれど、あいにく僕はそれどころじゃない。最初は我慢してたけどもう我慢の限界だ、なんて大きく開かれた窓に手をかけた。その瞬間、まるで僕が窓に近づくのを見計らってたみたいに強い風が吹いて、開いた窓の傍にいた僕は思いっきり花粉を吸い込んだ。一つ盛大にくしゃみをして、鼻をすすりながら空を仰いだら隣の校舎の屋上にいる人と目があった。そのときは名前も何も知らなかったんだけど、それがチョコさんだったのだ。僕は、くしゅっともう一つくしゃみをして、それからもう一回屋上を見た。けれど、そこにチョコさんはもう居なかった。痒い目をこすって涙を拭ってからもう一回。やっぱりチョコさんは居なかった。

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 次にチョコさんを見たのは、僕があの日屋上で見た女の子は幻だったんじゃないかって結構本気で思い始めてたころだった。
「クシャミくんはー、花粉症?」
 購買の前でそんな声をかけられて、振り返ったらチョコさんが居た。遠くにいたはずの女の子が目の前にいたもんだから、僕は大いに驚いて、買ったばかりのメロンパンを落としてしまった。メロンパンを拾い上げるときに目に入ったチョコさんのスリッパは緑色をしていて、先輩だったんだなってそんなことを思う。
「クシャミくんメロンパン好きなん?」
 じゃあオバちゃんあたしもーって、暢気にメロンパンを買ってるチョコさんの横、僕はそのたった一言が飲み込めなくて溜息をつく。
「クシャミくんて」
 そのときのチョコさんの笑顔ときたら飛びっきりで、今でも全然色褪せてない。
「いやいや、見事なクシャミやったよ、クシャミくん!びゅーんって空飛んできて、うつっちゃったもんね」
 両手を開いて説明するチョコさんの横、欠伸じゃあるまいし、と思ったけど、訂正するのも馬鹿らしくって僕はしかたなく頷いた。それを見てチョコさんも満足げに頷いた。
「じゃ、クシャミくん、またくしゃみするときは呼んでね!」
 そう言ってチョコさんはメロンパンを振り回しながら去っていく。僕は何があったのか理解できずに、その後姿を見送るので精一杯だった。
「スプリング、ハズ、カム!」
 メロンパンを振り回しながらチョコさんが叫んだ。下手くそな英語で、学校中に聞こえそうな声で。

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 チョコさんの名前を知ったのはメロンパン事件のすぐ後だった。御影智世子。それは僕の友人の先輩が昔付き合っていた人だった。みため可愛いけど、付き合うとすげー我侭で疲れるんやって。そう言って友人は僕に警鐘を鳴らしたけれど、友人の先輩が振り回された我侭はどこまでもチョコさんらしくて、思わず僕は吹き出した。そんな我侭に振り回されたいなって思って、名前を知ってるよって言ったらチョコさんはどんな顔をするんだろうなんて考えて、ひとりニヤニヤ笑ってた。
 それなのに、僕が名前を知っているよと言ったら、チョコさんは泣きそうな顔をした。御影も智世子も似合ってないと言って泣きそうな顔をした。だから僕は、チョコみたいで可愛いですよ、って言ってチョコさんと呼ぶことにしたのだ。チョコさんは照れくさそうに笑って、次の日髪をチョコレート色に染めた。

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 チョコさんと最後にあったのは春の終わりの事だった。長い雨が続いているおかげで、僕はくしゃみをしなくなっていた。チョコさんの髪の毛はほんの少しだけ根元の黒が目立ってた。チョコさんは職員室の前なんて、学校で一番似合わない場所にいて、なんだかチョコさんじゃないみたいだった。
「チョコさん」
 声をかけたら、緊張で声が裏返った。それでもチョコさんは無理やり笑ってくれた。何してるんですか?って訊いたらまた笑顔。僕の質問に答える気はないんだなって僕は一つ溜息。
「一緒にさ、学校辞めちゃおっか」
 突然チョコさんがそんなことを言って、本当に今日のチョコさんは変だって思って、僕はさっきのチョコさんみたいに無理やり笑うことしか出来なかった。
「やっぱ、あかんか」
「この前入学したばっかやし」
「そーやよな。学校は楽しいかい?少年!」
 一つ僕が頷くと、チョコさんは綺麗に笑う。なんとなくだけど、チョコさんみたいに毎日過ごせたら楽しいんだろうなって思った。それなら結構、ってチョコさんが楽しそうに言うから、僕はチョコさんの背中が見えなくなるまで気付かなかった。チョコさんはその日、一度も僕をクシャミくんと呼ばなかったのだ。
 そうして僕の大嫌いな春は終わり、長い雨が本格的に梅雨に変わるころ。チョコさんは、春と一緒に居なくなってしまった。

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 今でも時々あの日のことを思い出す。一緒に学校やめようって言ったとき、チョコさんは寂しかったんじゃないかなぁ、って思って今更すこし後悔している。あの時、僕が頷いていたら、今頃僕はチョコさんの横でチョコさんの我がままに振り回されていたんかなぁ、って。
 だけど僕はあの時頷けなかった。だから僕は、今ここに居る。
 今頃チョコさんは何してるんかなぁって、ぼんやり考える。チョコさんは春が好きな人だった。もしかしたら、あの時みたいに下手くそな英語で叫んでるのかもしれない。そうだったらいいなって思う。
 今でも僕は、大嫌いな春を好きになれないでいる。そうして僕はチョコさんのいない学校で、ひとりぼっちでくしゃみしている。