ランドスケープ

 ワイン色をした真新しいワンピースは容赦なくゴミ箱に捨てられた。
「こんなダサいのやだし」
 彼女はそう言ってゴミ箱を蹴った。彼女にワンピースをプレゼントした学者は今頃悲しんで肩を落としているんだろうか。いや、もしかしたら新しく彼女の趣味がわかったと、嬉々として論文を書いているのかもしれない。そんなことは僕にとってどうでもいい事で、いま一番の問題と言えば読んでいた漫画の続きを与えてもらえなかったことである。結局あの主人公は世界を救えたんだろうか。
「あだむ」
 奴らに呼ばれても僕は知らぬ振り。無視を決め込んで、与えられた本を物色する。
「あだむ」
 呼ばれて顔を上げると、目の前に捜し求めていた漫画があった。太い触手が僕にそれを差し出しているのだ。それを受け取ると奴らはヒューと鳴く。それが喜んでいるらしいと言うのは最近解ってきた。実験成功、ってか。単純な僕に対して“イヴ”のほうの実験は上手く行っていないようで、彼女はひたすら洋服を捨てまくっている。ちょっと奴らの方が可哀想になってしまうぐらい、そりゃあもう、潔く。
「ミヤエ、諦めたら?」
「嫌。こんなの着るぐらいなら前の方がマシ」
 “イヴ”ことミヤエは青いフェルトの、形だけで言うなら多分ブラウスになる感じのダサい洋服を焼き払った。文字に関する“人間学”は進んでいるようで、最近滅多にミスはなくなってきた。時々エッチな本と間違えたのか女性用のファッション誌が僕のほうに届いたりその逆が起こったりはするんだけど、それでも大体のことは許容範囲内だ。けれど、奴らの美意識は僕らと程遠い場所にあるらしい、どうしても洋服だけは奇天烈なセンスのものが届く。数百という服の中でミヤエが満足したのは、いま彼女が着ている水色のワンピース、それから赤いセーターと白のスカートだけである。言語学もまだまだ発展途上だから、ミヤエは毎回行動で拒否を示してる。
「なんでそんなの着れるのよ?」
 最後のキュロットスカートを捨てて、ミヤエが溜息をつく。今の僕の服装はエメラルドグリーンのTシャツに、5部丈と呼ぶべきだろうか、微妙な長さのスラックス。雑誌なんかに載っているお洒落な服装から見れば随分奇天烈な服装だ。
「デニムと革じゃなかったら何でもいい」
 僕はそう答えて漫画の続きを読む。何を見てそう判断したのか、最初のころ僕のところに届いたのは全部革かデニムで出来ていたのだ。形がシャツであろうと何であろうと構わずに。あれはホントやってられなかった。
「キリ」
 ミヤエが僕を呼んだ。僕がアダムで彼女がイヴ。そんな名前をつけられているのは知っていたけど、僕らはお互いをそんな名前で呼ばなくなった。与えられた本を読み漁っているうちに僕がその名前の意味に気付いたのだ。僕らに与えられた名前は旧約聖書の中にあって、それは最初の人間夫婦の名だった。
  ―アダムとイヴにはならないでいよう。
 それを知ったとき、彼女はそう言った。それには僕も同感だった。
 絶滅危惧種の僕たちを2人囲ってそんな名をつけて。奴らの思ってることは明らかだった。僕らを絶滅させまいと必死なのだ。奴らは僕らを毎日見張り、日に3度の食事を与え、それから衣服や本を思いついたように差し出してくる。僕らが食事を残せばすぐに検査し、ケースの中は常に清潔に保ち、日々僕らを研究している。それは僕らのためじゃなく、自分たちが地球上から種を一つ消してしまうという罪から逃れるためなのだ。全てのものが与えられる、絶滅危惧種としての生活に不自由はない。けれど僕らは奴らを許しはしない。僕らが絶滅しようとしているのは、8000年前に地球に誕生した奴らによる虐殺が原因なのだ。今更になって、種をひとつ消す、その罪の重さを悟った奴らは僕らにアダムとイヴなんて名をつけて、必死になって囲っている。創世記よ、もう一度ってとこ。けれど僕はアダムなんかじゃないし、彼女はイヴなんかじゃなかった。僕はこの世界最後の男で、彼女はこの世界最後の女だった。
 それから僕らはお互い違う名前で呼び合うことにしたのだ。僕は漫画の主人公、彼女は雑誌のトップ・モデル。何があっても僕らはアダムとイヴにはならない。最善は尽くしたんです、なんて、逃げ道を奴らに作らない。奴らのことは許さない。
「キリ」
 もう一度、彼女が僕の名前を呼んだ。漫画の中で僕が人を殺した。
「逃げようよ」
「いいよ」
 読み終えた漫画を閉じて放り捨てた。僕はミヤエの手を取って、棄て散らかされた服を片付けている触手を一気に駆け上る。完全に奴らは油断していた。奴らの中で、僕たちは奴らに抵抗することのない生き物だったのだ。僕らの世界を囲ってた高い塀を乗り越えて、僕らは一気に飛び出した。いくつかの触手が伸びてくるけど、そんなものからは容易く逃げられる。奴らは僕らを殺せない。

 ズルズルと奴らの過ぎ去る音がして、僕たちは揃って小さく息を漏らした。僕らが隠れていたガラスケースのようなものには数人の人が乗っていた。人というべきか人だったものというべきか。彼らは全て固く冷たい。うつろな目は何も映さないし、手も足も指一本でさえも動くことはない。
「どう思う?」
「もう少しマシな人間使えばよかったのに」
 ミヤエが馬鹿にしたように笑った。標本としては十分なのかもしれないが、それぞれの人種が男女セットで飾られている、それらはどう見ても不釣合いなカップルばかりだった。
「あたしの方がマシでしょう?」
「うん、ミヤエのほうがずっと美人」
 正直に僕がそう言ったらミヤエは嬉しそうに笑った。ミヤエの笑顔は剥製のどの女より綺麗だと思った。この剥製がみんな生きていても、この地球に百億の人間が居たとしても、きっと僕は彼女を選ぶ。
「ミヤエ」
 名前を呼んで抱きしめた。視界の隅に僕のTシャツが入り込む。ああ、なんてこった。いくらなんでもこれは酷い。
 結局、あの漫画の主人公は世界を救えやしなかった。それでも僕は、一生使うことないと思ってた言葉を唇に乗せる。
「愛しているよ」
 世界の終わり、剥製と同じぐらいに不釣合いな僕たちは、生まれて初めてキスをした。